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ルッソ バルト C24/30 ランドレー ロシア 1910年
ルッソ バルト車両会社はロシア帝国時代の1894年に創業された会社で当初は馬車などを製造し、後に路面電車、自動車、航空機を製造するようになりました。最初の自動車は1909年に登場したルッソ バルト 24/30でした。この車はベルギーの自動車会社 フォンドウ (AUTOMOBILES CHARLES FONDU 1906年から1912年まで存続)の技術者を雇い、4気筒4.5Lエンジンを搭載したフォンドウ 24/30CV (1907)をライセンス生産したものだったようです。その後乗用車のK12、C24、E15とトラックのD24、M24、T40などが生産されるようになりました。1912年からは航空機も製造するようになりました。
乗用車のベースとなったフォンドウ車はラリーなどで活躍していて、ルッソ バルト C24も1912年のモンテ カルロ ラリーで9位となっていますので、信頼性が高い車だったようです。ルッソ バルトの乗用車として一番高級であったC24にはトルペード、フェートン、ランドレー、リムジンなどがあり約350台ほどが生産されました。C24のランドレーはロシア皇帝の御料車として使われたようです。1917年のロシア革命でロシア帝国が崩壊し、ルッソ バルト社は1918年に国有化され、その後は軍用車だけを生産するようになり1923年にブランドが消滅しました。
ミニカーは1985年に入手したソ連製のミニカーです。(オークションで入手したので正確な発売時期がわかりません) ルッソ バルトの初期型 C24/30 1910年式の上級グレードのランドレーをモデル化しています。プロポーショが正確で、クラシックカーに付き物の灯火類や金具類が金メッキしたパーツで再現され、床下部分のシャーシやサスペンションもそこそこ再現されているなど、クラシックカーの1980年代のミニカーとして良い出来ばえになっていました。この作風はイタリアの老舗ブランド リオのミニカーによく似ていて、たぶんお手本にしていると思われます。なおルッソ バルト C24のミニカーは最近までこのUSSR製しかありませんでしたが、最近になってデアゴスティーニのミニカー付き雑誌「Auto Legends USSR」シリーズでもモデルされました。
なおソ連製ミニカーが日本国内に本格的に輸入されたのは1977年で、この時期にかなりの種類が販売されました。ほとんどモデル化されていないロシア製乗用車のミニカーということで、私もミニカー専門店でモスクビッチなどを購入しました。ただしこの時期に輸入されたソ連製ミニカーは当時のソ連の民生用製造業の品質レベルを反映していて、使用しているダイキャスト材に粗悪な物が多く、経年変化で破損するものが多かったです。その後も1980年代までソ連製ミニカーは単発的に輸入されていましたが、徐々に品質レベルは向上していきました。このルッソ バルトのミニカーは1980年代に作られた物だと思われますが、同時期に私が購入したソ連製ミニカーには経年劣化した物はなく、ダイキャスト材の品質は良くなったようで、材質だけではなくミニカー製作の技術レベルも向上していました。 以下はフロント/リアの拡大画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
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ベンツ ブリッツェン ドイツ 1911年
1909年以降にヨーロッパでは各国の利害の対立でフォーミュラーカー規定がまとまらなくなり、GPレースが開催されなりました。そこで自動車メーカは自車の宣伝をする為に、レースに使えなくなった大排気量のレーシングカーを使って各種の速度記録に挑戦することになりました。ベンツはこの目的で1909年にレーシングカー ブリッツェンを開発しました。ブリッツェンは4気筒21.5L(220HP)の巨大なエンジンを搭載し後輪をチェーン駆動していました。なお名前の「ブリッツェン」とは稲妻という意味です。
ブリッツェンは1909年にイギリス ブルックランズで202.7km/hの速度記録(往復の平均速度)、1911年にアメリカ デイトナ ビーチで228.1km/hの速度記録を達成しました。この228.1km/hの速度記録は当時の鉄道や航空機よりも速く、1919年まで破られませんでした。この速度記録を出したブリッツェンのカウル付フロントグリルを持つ流線形ボディやカバー付ホイールなどの空気抵抗を考えたデザインは先進的でした。エンジンの燃料供給は手動の圧縮ポンプで行っていたので、狭いコクピット内の助手席には圧縮ポンプを操作するアシスタントが乗っていました。(コクピット内をよく見ると2シータなのです) 製造された6台のうち2台が現存し、メルセデス ベンツ博物館とアメリカの収集家が保有しているそうです。
ミニカーは1970年代に発売されたカーソル(CURSOR)製です。このミニカーはダイムラー ベンツ社の100周年記念品として製作されたプロモーション モデルの一台でした。このプロモーション モデルは主にダイムラー ベンツ社のディーラーで100周年記念品として販売されたようですが、一般向けにも1978年頃にデパートなどで販売されました。 (参照ページ→ カーソルのミニカー) このミニカーは228.1km/hの速度記録を達成した流線形ボディの車をモデル化しています。全体がプラスチック製で後輪のチェーン駆動部などの細部までリアルに再現されているなど、当時の玩具的なミニカーとは一線を画するスケールモデル的な出来ばえでした。これ以外のベンツ ブリッツェンのミニカーはブルムの初期型など4種類、ボスモデル(レジン製)の1/18などがあります。 以下はフロント/リアの拡大画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
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アウディ タイプ A (10/22) ドイツ 1911年
自動車創世記にベンツの工場長を務めていた技術者アウグスト ホルヒ(August Horch)はホルヒ社を設立し、1901年から自動車製造を始めました。アウグスト ホルヒは技術/品質にこだわって出資者の経営陣と対立し、1909年に自分が設立した会社を去りました。その直後に彼はまたホルヒという名前の会社を設立しましたが、元のホルヒ社からクレームが付き、1910年に名前をアウディに変更しました。なおホルヒとはドイツ語では「聞く」という意味があり、ラテン語で同じ「聞く」という意味のアウディ「AUDI」を使ったそうです。
アウディ社が生産した最初の車はタイプ Aでした。タイプ Aは4気筒2.6L(22-28HP)エンジンを搭載した後輪駆動車で、最高速75km/hの性能でした。1911年から1915年の5年間で137台が生産されたようです。その後1911年にはタイプ B(4気筒2.6L 28HP)、タイプ C(4気筒3.6L 35HP)、1912年にタイプ D(4気筒4.7L 45HP)が登場しました。さらにタイプ E、G、Kが続き1924年には初の6気筒4.7L(70HP)エンジンを搭載したタイプ Mが登場しました。この当時のアウディ車は高性能な高級車として知られていました。
ミニカーは2010年に発売されたミニチャンプス製です。もともとはアウディ社の100周年記念モデルとして製作された物で、そちらは実車参照画像と同じ緑のボディカラーで出来ているようです。メーカー特注品ということで、通常品よりレベルの高い仕上がりとなっています。特にエッチング パーツで出来たハンドルとボディ右サイドの変速レバー、細かな細工の灯火類、忠実に再現された前後のサスペンションなど非常にリアルに作ってあります。ちょっと変わっているのはヘッドライトの砲弾型のカバー(多分破損防止用)ですが、横にヒンジのような部分がありますので使用するときにはカバーを開くのだと思います。 ただし限定1000台ほどの少量生産品故にレジン製で軽くて安っぽい感じがするのがいまいちです。 以下はフロント/リアの拡大画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
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ロレーヌ ディートリッヒ フランス 1911年
ディートリッヒ社はフランスのロレーヌ地方(ドイツとの国境地帯)で蒸気機関車を作っていた会社で、1896年に自動車製造に進出しました。後にブガッティ社を設立したことで有名な技術者エットーレ ブガッティを採用し、彼が設計した4気筒5.4Lエンジン搭載車24HPはこの会社の名前を上げました。1907年にはイソッタ フラスキーニ社と一時的に合併し、イソッタ フラスキーニの設計した高級車も製造しました。この頃から車の名前をロレーヌ ディートリッヒに改名し、高性能な車として評価されるようになりました。(実車画像→ ディートリッヒ 24HP 1903)
1919年に高性能なOHC(オーバーヘッドバルブ)、アルミ製ピストンを採用した高性能な6気筒3.5Lエンジンを搭載した新型車15CVが登場しました。15CVのレース仕様車B3-6は1925年と1926年のルマンで連続優勝したことで有名です。15CVはエンジンを4Lに拡大した20CVに変更されて生産されましたが、その頃から自動車部門は採算が悪化しました。ディートリッヒ社は1930年にフランスの航空機メーカーに吸収されて航空機エンジンと軍用車両の生産を行うようになり、1935年に自動車生産から撤退しました。
ミニカーは1960-1970年代に発売されたラミー(RAMI)製です。ラミーのミニカーを解説しているWEBサイトには実車画像が掲載されているので、どこかの自動車博物館に保管されていた車をモデル化しているのでしょうが、モデル化している実車が良くわかりません。年式から判断して4気筒2.2Lエンジンを搭載した中型車(タイプ LF?)をモデル化していると思われますが、確証はありません。独特の形状をしたフロントグリル形状(グリルが網目なのは時代を感じさせます)やボンネットとボディの接合部形状など当時の技術で実車をそれなりにうまく再現しています。セダンボディも実車に忠実な造形で当時のミニカーとしては良い出来ばえでした。これ以外のロレーヌ ディートリッヒのミニカーはMINIALUE(ミニオール)、イクソのB3-6、ミニチャンプスのB3-6などがあります。 以下はフロント/リアの拡大画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
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レオン ボレー タイプ G ダブル ベルリーヌ フランス 1911年
フランスのレオン ボレー自動車会社はレオン ボレー(Leon Bollee)が1895年に設立しました。レオン ボレーは1878年にアメ デ ボレー蒸気車を開発したアメデ ボレー(Amedee Bollee)の息子でした。1895年にレオン ボレーが最初に製造した自動車は単気筒エンジンを搭載した3輪の小型車で、この車は数百台が売れたそうです。その後1899年に単気筒エンジン搭載の4輪車、1903年には4気筒4.6L/8Lエンジンを搭載した大型車、1907年に6気筒エンジンを搭載した大型車が登場し、1910年頃には9種類のモデルがあり年間600台の車を製造していました。
レオン ボレーは1913年に亡くなりましたが、彼の未亡人が会社運営を続けました。1914年に勃発した第1次大戦中は機関銃などの武器を製造しました。第1次大戦後も自動車生産を行いましたが、1924年にイギリスのモーリス社に買収され、名前がモーリス レオン ボレー社に変更されました。その後同社はモーリス カウリー/オックスフォードのフランス版を生産するようになりました。フランス市場でのモーリス車の販売が芳しくなくフランス工場は閉鎖されることになり、1931年にレオン ボレー社の歴史は終わりました。
ミニカーは1960-1970年代に発売されたラミー(RAMI)製です。1911年に登場したタイプ Gと呼ばれる車をモデル化しています。馬車を2台分連結したようなボディなのでダブル ベルリーヌと呼ばれています。実車はフランスのリヨンにある自動車美術館に保存されているようで、ラミーはその実車をモデル化しているようです。(この車をWEBで検索するとこのボディの実車画像が見つかりますので良く知られた車なのでしょう) 50年以上も昔に作られたビンテージミニカーですが、特徴的なボディが良く再現されていて当時の技術で実車を忠実にモデル化しています。フロントグリルのLEON BOLLEEのロゴとボディー側面の木目パネルを再現した部分はデカールを貼ってあり、当時のミニカーとしては凝った仕上げでした。なおカラーリングが実車に比べて派手なのは、カラフルな外観のほうが売れるからでしょう。レオン ボレーの量産ミニカーはこれしかありません。このような珍しい初期の自動車をモデル化しているラミーは、クラシックカーのミニカーが好きな方(あまり日本にはいませんが)には人気があったブランドです。 以下はフロント/リアの拡大画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
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