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N.A.G. (エヌ アー ゲー) ツーリング スポーツ ドイツ 1904年
1902年ドイツの電気会社AEGは初期の電気自動車や単気筒エンジンを搭載した小型車を製造していた会社を買収し、会社名をN.A.G.(Neue Automobil Gesellschaft:新自動車会社の意)に変更しました。同社の最初の車は2気筒エンジンを搭載したタイプAと4気筒エンジンを搭載したタイプBで、同時期のメルセデスに似ていました。その後4気筒7.9Lエンジンを搭載するタイプB2が登場し、この車は1907年にドイツ王室の御料車として採用されドイツ皇帝ヴィルヘルム 2世の妻 アウグステ ヴィクトリア皇后に愛用されました。(皇帝ははメルセデスを使ったようです) その後AEGは自動車事業から撤退しましたが、N.A.G.は単独で事業を継続しました。
1908年にK2パック(PUCK)と呼ばれる4気筒1.5Lエンジン搭載の小型車が登場し、このエンジンは高性能でレースで活躍しました。K2パックはK2 ダーリン(DARLING)というモデルに発展し、K2以外の1910年代のN.A.G.には8.5Lエンジン搭載の大型車60HPから2LエンジンのK4、3.3LエンジンのK5、5.1Lエンジンの25/35HPなどがありました。第1次大戦後に4気筒2.5Lエンジン搭載の中型車C4が登場し、この車もレースで活躍したのですが、会社の経営は不振でした。1927年に6気筒3L/3.6Lエンジン搭載の201/204、1931年にドイツ初のV型8気筒4.5Lエンジンを搭載した前輪駆動方式の218などが登場しましたが、それを最後にしてN.A.G.は1934年に消滅しました。
ミニカーは1960年代に発売されたドイツのチィス(ZISS-MODELL)製です。チィスはMINI-AUTO社のブランドでドイツ車中心でクラシックカー、乗用車、商用車などのミニカーを1960年代に生産していました。チィスのクラシックカーのミニカーはフロントグリルや灯火類などに金属製パーツを使っていますのでがっちりとしたつくりとなっています。モデル化された実車の詳細はよくわからないのですが、年式から4気筒5.2Lエンジンを搭載したタイプ B (20/24HP)だと思われます。4人乗りのオープンカーで、リアにスペアタイヤを積んでいますのでレース仕様なのかもしれません。この当時のN.A.G.はこのミニカーのような丸いラジエーターグリルが付いていたようです。1960年代のクラシックカーのミニカーとしては良く出来ていました。バリエーションで幌の付いたフェートンもモデル化していました。これ以外のN.A.G.のミニカーはありませんが、N.A.G.を買収したビュッシングのトラックのミニカーがあります。 以下はフロント/リアの拡大画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
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アドラー フェートン ドイツ 1906年
アドラー(ADLER)社の前身はハインリヒ クライアー(Heinrich Kleyer)が1880年に設立した自転車製造会社でした。(ADLERとはドイツ語で「鷲」の意) 1900年にド ディオン ブートン社の単気筒エンジンを搭載したバイクと小型車の製造を始め、最初の小型車は既にシャフト ドライブを採用していました。その後自社製エンジンを開発し、このエンジンを搭載した車はレースで活躍しました。第1次大戦前には2気筒/4気筒エンジン搭載車をそろえた先進的で堅実な自動車メーカーに成長しました。
第1次大戦後は6気筒エンジン搭載のスタンダード6、8気筒エンジン搭載のスタンダード8などが登場しました。1932年に先進的な前輪駆動方式と独立懸架サスペンションを採用した4気筒1L-1.7Lエンジンを搭載したトルンプ(TRUMPF)シリーズが登場し、この車は優れた性能でヒットしたそうです。1930年代中ごろに6気筒2.5Lエンジンを搭載した2.5L(タイプ10)が登場し、この車は当時最新の流線形ボディを採用していました。第2次大戦後は占領軍の方針で自動車生産が出来なくなり、自転車やバイクと事務機器の生産を行いました。アドラーのバイクは人気があったそうですが、アドラーは買収されて1950年代後半以降は事務機器(タイプライターなど)を生産するようになりました。
ミニカーは1960年代に発売されたドイツのチィス(ZISS-MODELL)製です。チィスはMINI-AUTO社のブランドでドイツ車中心でクラシックカー、乗用車、商用車などのミニカーを1960年代に生産していました。チィスのクラシックカーのミニカーはフロントグリルや灯火類などに金属製パーツを使っていますのでがっちりとしたつくりとなっています。モデル化された実車の詳細はよくわからないのですが、当時の上流階級が使用した4気筒エンジンを搭載した高級車24/28HPだと思われます。大きなソファーのような後部シートとその前にある補助席的なシート(付き人用)の配置に当時の高級車らしさが感じられます。後車軸のデフなど細部まで再現されていて、1960年代のクラシックカーのミニカーとしては良く出来ていました。大きなADLERのロゴが付いたフロントグリルが目立ちますが、実車の画像でこのようなロゴが付いているモデルは見当たらないので、たぶんチィスの創作でしょう。バリエーションで密閉したキャビンを持つタイプもモデル化していました。これ以外のアドラー初期のミニカーはAUTOCULT(レジン製)がこれと同じ18/35HPをモデル化しています。また1930年代のアドラーのミニカーはメルクリンのビンテージ物やネオ(レジン製)の2.5Lなどがあります。 以下はフロント/リアの拡大画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
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メルセデス 37/65HP リムジン ドイツ 1908年
エドワード期のダイムラー社(DMG:Daimler-Motoren-Gesellschaft)が生産していたメルセデスの量産車にはベテラン期に登場した4気筒エンジンを搭載するジンプレックスとその上級車である6気筒エンジン搭載車がありました。この6気筒エンジンはチーフエンジニアのウィルヘルム マイバッハが設計したものでした。6気筒9.5L(65HP)を搭載する37/65HPと6気筒10.5L(75HP)を搭載する39/75HPがあり、当時のメルセデスの最上級車として1908年に登場しました。4段変速の後輪チェーン駆動で最高速90km/hの性能でした。フォーマルなリムジンや洒落たカブリオレなどが架装され、1911年まで生産されました。
なおウィルヘルム マイバッハは1906年にレーシングカー用にOHCを採用した高性能な6気筒12.9L(70HP)を開発していますが、このエンジンの使い方について上層部と対立し、前述した乗用車用6気筒エンジンを開発した後に会社を辞めています。マイバッハはその後1909年にマイバッハ社を設立しています。退社したマイバッハの後継者として他の会社に出向していた創業者ゴットリーブ ダイムラーの長男であるパウロ ダイムラーが呼び戻され、彼はメルセデス車のチェーンドライブをシャフトドライブに改良していきました。
ミニカーは1970年代に発売されたリオ製です。リアのカタログには単にメルセデス リムジンとされていますが、6気筒エンジン搭載の37/65HPをモデル化していると思われます。ベテラン期に紹介したリオ製のジンプレックスの型を流用して、37/65HPに仕立てています。ジンプレックスのフェンダーやボディを変更してあり、長距離旅行用のリムジーンという設定で屋根上とリアに荷物を満載しています。ミニカーの箱に添付されていた解説書にはメルセデスのリムジーンはこのような長距離旅行用として快適かつ安全にドライブできることでよく知られていたと書かれていました。床下部分にはシャーシ/サスペンション、エンジン/排気管が再現されていて、左右後輪をチェーン駆動している構造がよくわかります。 以下はフロント/リアの拡大画像と床下部分の画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
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オペル 5/10HP シュタット クーペ ドイツ 1908年
前述したようにオペルはフランスのダラック社と提携しオペル ダラックをライセンス生産することで技術を習得しました。オペルは1902年のハンブルク モーターショーで2気筒1.9L(12HP)エンジンを搭載した独自設計の小型車10/12HPを発表し、1906年から製造を始めました。(10/12HPとは課税上の馬力区分が10HPで実際の馬力が12HPという意味です) 1906年にはダラック社との提携を解消したので、オペル ダラックは1907年に生産中止となりました。
このミニカーがモデル化している実車は、ニ玄社の書籍「世界の自動車 オペル」を参照すると10/12HPの改良型の5/12HPが該当するようです。5/12HPは4気筒1.6L(12HP)エンジンを搭載し4段変速で最高速55km/hの性能でした。このシュタット クーペ(STADT-COUPE 英語ではTOWN-COUPE)という名前は、密閉した客室(クーペ)形式のボディを意味しています。ミニカーでみてもずいぶん車高が高いですが、実際に車内で立っていられるほどの高さがあったそうです。なおこのシュタット クーペの年式はミニカーの底板に明記されている1908年ではなく1911年だと書いてあるWEBサイトもあります。またトリノ自動車博物館関係の書籍によると5/12HPは1912年式とも書かれていますので、どれが正しいか分かりませんが、ミニカーに明記された年式を優先しました。
ミニカーは1960年代に発売されたチィス(ZISS-MODELL)製です。チィスはドイツのMINI-AUTO社のブランドでドイツ車中心でクラシックカー、乗用車、商用車などのミニカーを1960年代に製作していました。チィスのミニカーはフロントグリルや灯火類などに金属部品を使っていますので、がっちりとしたつくりとなっています。このシュタット クーペも金属製のロゴ入りラジエータグリルに独特の雰囲気があります。細かい部分もそこそこ良く再現されているので、当時のミニカーとして良い出来ばえでした。 以下はフロント/リアの拡大画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
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オペル 4/8HP ドクトルワーゲン ドイツ 1909年
オペル シュタット クーペの解説に記載したようにオペルの独自設計した車が1906年から登場しました。その当時のオペルの一番有名な小型車が1909年に登場した4/8HPでした。4/8HPは4気筒1029cc(8HP)エンジンを搭載し3段変速機で最高速度60km/hの性能でした。2シータの小型車で狭い路地などにも入っていけるので、患者を診察するために長距離を運転する地方都市のお医者さん向けということで「ドクトルワーゲン」の名前が付けられました。またこの車は信頼性が高く安価であったことから、お医者さんだけではなく一般人にも広く使われるようになりました。
オペルはこのような実用車でその地位を固め、1910年頃には年間数千台を生産するドイツで最大の自動車メーカーになっていました。1911年に同社の工場は火事で大部分が焼失しました。工場の再建にあたり、オペルはミシン製造を止めて自動車製造に専念することを決め、自動車製造用の最新設備で新工場が建設されました。当時の自動車メーカーは自社の優秀性を示すためにレースに参戦していました。オペルも1904年から参戦し1907年のカイゼルプライス(Kaiserpreis) レースでは4気筒8L(75HP)エンジンを搭載したレースカーが3位/4位となりドイツ車として最高の成績を残しています。(優勝したのはフィアットでした) その後もオペルは1920年代半ばまでレース活動を続けていました。(実車画像→ オペル レースカー 1907)
ミニカーは1960年代に発売されたドイツのチィス(ZISS-MODELL)製です。チィスはMINI-AUTO社のブランドでドイツ車中心でクラシックカー、乗用車、商用車などのミニカーを1960年代に生産していました。チィスのミニカーはフロントグリルや灯火類などに金属部品を使っていましたのでがっちりとしたつくりとなっていました。このドクトルワーゲンも上述したシュタット クーペ同様にロゴ入りのラジエータグリルに独特の雰囲気があります。灯火類や幌も金属製でややごついですが、当時のミニカーとしては良い出来ばえでした。これ以外のドクトルワーゲンのミニカーはマッチボックス、ガマなどがあります。 以下はフロント/リアの拡大画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
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