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イソッタ フラスキーニ 8A スパイダー イタリア 1924年
イソッタ フラスキーニ社は1900年にチャザーレ イソッタとヴィンチェンツォ フラスキーニが設立しました。ルノーの小型車のノックダウンから始まり1904年にルノーを真似たオリジナルモデルを開発しました。1908年のタルガ フローリオで優勝するなどレースで活躍し、小型車から大型車まで幅広いモデルを製作していました。同社でよく知られているのは大型高級車で、その代表的なモデルが1919年に登場した世界初の直列8気筒エンジン(5.9L)を搭載したティーポ 8(以下 8と記載)でした。1924年にエンジンを7.4Lに拡大した8Aとなり、1930年にエンジンを強化した8Bとなりました。約100台が1932年まで生産されました。
イソッタ フラスキーニ 8は8気筒エンジン以外に技術的に目新しいものはなく、同じ頃のライバル車(イスパノ スイザやロールス ロイス)には内容的に及ばないとの評価でした。イソッタ フラスキーニの売りは大型シャーシとイタリア有数のコーチビルダーが贅を尽くした豪華なボディで、アメリカの富裕層には人気がありました。イソッタ フラスキーニの全盛期は長くは続きませんでした。1928年から始まった世界的不況は高級車市場を直撃し、苦境に陥ったイソッタ フラスキーニは8の後継車を発表しますが、1935年に工場が閉鎖され航空機会社に買いとられました。その後再起を図りますが結局1949年にその歴史を閉じました。
ミニカーは1970年代に発売されたリオ製です。8A スパイダーという名前で4ドアのカブリオレをモデル化していますが、該当する実車の画像は見つかりませんでした。ホワイトリボンタイヤを履いているのでおそらくアメリカ向けに架装されたボディと思われます。白いボディに赤いラインのスポーティなカラーリングが綺麗で、豪華なカブリオレの雰囲気がうまく再現された良い出来ばえとなっています。円筒形のヘッドライトや運転席横のスポットライトなどもそれらしい出来ばえになっています。リオの8Aはこれ以外にも数種類のバリエーションがあります。リオ以外のイソッタ フラスキーニのミニカーはフランクリン ミントの1/43、イクソなどがあります。 以下はフロント/リアの拡大画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
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アルファ ロメオ P2 グランプリ イタリア 1924年
1918年にアルファ社は実業家ニコラ ロメオが興したニコラ ロメオ技師株式会社に吸収されて、1921年にブランド名をアルファ ロメオに変更しました。この当時のアルファ ロメオは前述したエドワード期の24HPの改良型の20/30HPと4気筒6Lの40/60HPの2モデルがあり、レースでの活躍でイタリア国内では高性能車としての地位を固めていました。また1921年には6気筒3Lのツーリングカー RLを発表しました。
アルファ ロメオはその名声を高めるためグランプリ(現在のF1)への参戦を決め、1914年にグランプリカーを製作しましたが、第1次大戦の勃発でグランプリへの参戦は中止となりました。戦後新たにグランプリカー P1を製作しましたが、1923年のモンザ GPのテストランの途中に事故を起こしてドライバーが死亡した為、参加を取りやめました。(実車画像→ アルファ ロメオ P1)
その後フィアットから有能な技術者ヴィットリオ ヤーノを招き、短期間で1924年に完成させたのがP2でした。DOHC 直列8気筒2L スーパーチャージャー付(140HP)エンジンを搭載し最高速225Km/hの性能でした。P2は初戦から優勝しその後もブガッティ、メルセデス、フィアットなどの強豪を相手に輝かしい戦歴を収めました。1932年に後継車のP3が登場しました。なお1930年にニコラ ロメオ技師株式会社から自動車部門が独立して社名がS.A.アルファロメオ(S.A. ALFA ROMEO)となりました。
ミニカーは1976年に発売されたメーベトイ製です。この当時はミニカー化されていなかったアルファ ロメオ P2をモデル化していました。メーベトイとしては後期のもので、当時としては珍しかった縮尺1/25の大スケールミニカーでした。メーベトイは1969年にアメリカのマテル社に買収されましたが、メーベトイの創業者は1974年から新たにマートイ(MARTOY)という新しいブランド名で縮尺1/24の大スケールミニカーを発売しました。マートイは1976年からブランド名を現在のBブラーゴ(BBURAGO)に変更しました。したがってこのP2の1/25のミニカーはBブラーゴの初期物と考えることもできます。実車の雰囲気が良く再現されていて、1/25とサイズが大きいこともあってコクピット内部などの細部もかなりリアルに出来ていました。初期の大スケールミニカーとしてはかなり良い出来ばえの秀作でした。P2はミニチャンプスもモデル化しています。 以下はフロント/リアの拡大画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
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アーレンス フォックス R-K-4 消防車 アメリカ 1924年
アーレンス フォックス社はアメリカのオハイオ州を拠点とする消防車メーカーでした。同社は1910年にジョン P.アーレンス(John P.Ahrens)とチャールズ H.フォックス(Charles H.Fox)によって設立され、1911年に最初のエンジン付き消防車を製造しました。その翌年には馬が引く馬車式消防車の生産が終了し、その後1970年代までに1500台以上の消防車が製造されました。アーレンス フォックス社の消防車は消防車のロールス ロイスと呼ばれて信頼されてきました。同社は2020年現在もHME アーレンス フォックス社として消防車を製作しています。(参照サイト→ HME アーレンス フォックス社 ホームページ)
画像のミニカーは1920年代に製作されたR-K-4 消防車をモデル化しています。1920年代のアメリカでは既に高層ビルが建築されていました。その為消防車には高所まで放水できることが要求され、アーレンス フォックス社の消防車は他社よりこの能力が優れていたそうです。ボンネットの前に付いているのが2気筒の送水ポンプ(毎分2270Lの送水量)で、その上にあるメッキされた球体は送水ポンプの圧力変動を滑らかにする為のエアチャンバーです。当時の消防車は送水ポンプを車体中央/後部に装備している場合がほとんどだったので、ボンネットの前に装備された送水ポンプとその上のエアチャンバー(球体)はアーレンス フォックス社の消防車の特徴でした。4気筒11L(130HP)ガソリンエンジンで後輪を駆動し、このエンジンで送水ポンプも駆動しました。後部には水タンク、消防用ホース、はしごを装備しています。
ミニカーは2003年に発売されたデルプラド製の「世界の消防車」の1台です。実車が大きいので縮尺1/64でモデル化されています。メーカーは明記されていませんが、アメリカのAMERCOM-HOBBYというメーカーの消防車シリーズに同じ物がありますので、それを流用しているようです。安価な雑誌付きミニカーでサイズが小さいので、あまり細かいところまでは再現されていませんが、R-K-4 消防車の特徴である送水ポンプやエアチャンバーはきちんと再現されています。はしごや消防用ホースもサイズが小さいですがそれなりに再現されています。当時の定価は2000円以下でしたから、値段を考えると良く作ってあると思います。これ以外のアーレンス フォックス 消防車のミニカーはヤトミンの1/24、シグネチャーの1/43、マッチボックスの1/43、フランクリン ミントの1/32などがあります。 以下はフロント/リアなど各部の拡大画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
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MAN ディーゼル トラック ドイツ 1925年
MANは「Maschinenfabrik Augsburg?N?rnberg (アウクスブルク-ニュルンベルク機械工場)」の頭文字で、製鉄や建設などを行う重工業企業として1898年に誕生しました。1915年にスイスのザウラー社と共同でMAN-ザウラートラック社を設立し、トラックやバスの製造を始めました。その後MAN-ザウラートラック社はMANの子会社となりました。
1914年に第1次世界大戦が始まり、馬に代わる輸送手段として欧米各国でガソリンエンジンを搭載する軍用トラックの開発が進められました。ドイツでは大量に必要となった軍用トラックの調達コストを下げる為、政府がトラックの統一基準を定め、すべてのメーカーに同じ規格のトラックを作らせるようにしました。また民間のトラックにも戦時には徴用できるという条件付きで購入に補助金を支給していました。
MANは1923年に直噴式ディーゼルエンジンを開発し、ディーゼルエンジンを搭載したトラックを生産しました。第2次世界大戦中は戦車や潜水艦 Uボートのディーゼルエンジンを製造していました。戦後もトラックやバスなどの専門メーカーとして発展しました。現在はドイツのトラックメーカーとしてダイムラー ベンツに次ぐ2位のメーカーで、フォルクスワーゲンのグループ企業です。
ミニカーは1960-1970年代に発売されたドイツのZISS(チィス)製です。MANが開発した最初のディーゼル トラックをモデル化しています。ZISSのミニカーはプラスチック部品をほとんど使用せず、がっちりとしたつくりで独特の雰囲気がありました。大型のトラックを1/43でモデル化しているので、大きなサイズで実車の雰囲気がうまく再現され、Wタイヤの後輪やそれを駆動するチェーンも再現しているなど当時としては出来の良いミニカーでした。なお金属製のフロントグリルには大きなMANのロゴが付いていますが、これは実車に即した物ではなく、ミニカーの見た目を良くする為に誇張しているようです。ZISSはバリエーションとしてタンクローリーやバスもモデル化していました。またボンネットとフロントグリルを変更して、同時代のトラックメーカー ヘンシェル(HENSCHEL)のトラックとタンクローリーもモデル化していました。ヘンシェルはディーゼルではなくガソリンエンジンを搭載していたと思いますが、上述したようにトラック規格が標準化されていたので、MANとヘンシェルはほとんど同じような外観だったようです。同様の理由で同時期のメルセデス ベンツ トラック 1932もよく似た外観です。これ以外のMANのミニカーはリーツェ、ブレキナ、AMW、ヘルパなどが大型トラックやバスなどを非常にたくさんモデル化しています。 以下はフロント/リアの拡大画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
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シトロエン B2 フランス 1925年
前述したように1919年にシトロエン自動車会社が設立され、最初の自動車 タイプ Aが登場しました。タイプ Aはヨーロッパで初めてフォード式の流れ作業による量産システムを採用した車でした。この大量生産システムによって、発売当初の価格は11000フランでしたが、1920年には7500フランまで下がりました。この価格は同クラスの車の半値ぐらいだったそうです。しかもこの価格には他社ではオプションとなっているスぺタイヤやライトなども含んでいたそうです。その為タイプ Aは大ヒットし、その改良型のB2が1921年に登場しました。
シトロエン B2は基本的にはタイプ Aとほとんど同じで、エンジン排気量が1327ccから1452cc(22HP)に少し大きくなりました。3段変速機で最高速70km/hの性能でした。タイプ Aと同じくセダン、クーペ、カブリオレ、商用車など様々なバリエーションのボディがありました。B2は当時のフランス車ではオプションであったスターター、ライト、スペアタイヤを標準装備していました。(したがって始動する為のクランクハンドルがついていませんでした) 1924年に大量生産向きの全鋼製(オールスチール製)ボディがセダンに採用され、それはB10と呼ばれました。なおそれまでは木骨構造のボディだったのです。1925年に後継車のB12が登場しました。B2とB10は1926年まで生産され総生産台数は約9万台でした。
ミニカーは1960-1970年代に発売されたラミー(RAMI)製です。ラミーはフランスなどの自動車博物館に展示されているクラシックカーを1/43サイズで40種類ほどモデル化していました。昔のミニカーですからあまり細かいところまでリアルという訳ではないですが、レトロな作風がクラシックカーには似合っていました。このB2は標準的な4ドアセダンで、1925年式ですから全鋼製ボディのB10をモデル化しているのかもしれません。このミニカーでもB2が特別な特徴がない平凡な実用車だったということが分かります。(ただ黄と黒のツートンカラーは結構魅了的ですが) 以下はフロント/リアの拡大画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)