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モトブロック トノー フランス 1902年
19世紀後半にチャールズ シャウデル(Charles Schaudel)は自転車を製造していました。彼は1897年に横置き2気筒エンジン、クラッチ、3段変速機を一つの筐体(ブロック)に収めた構造の自動車を開発し、シャウデル社(Ateliers Schaudel)を設立して自動車製造を始めました。この先進的な構造はモトブロックと呼ばれました。1902年にシャウデル社を買い取った義理の兄弟エミール ドンブレット(Emile Dombret)が、会社名をモトブロック自動車(Automobiles Motobloc)に変更しました。
モトブロック自動車の最初の自動車はシャウデルの開発した2気筒エンジン搭載車がベースで1904年まで生産されました。モトブロックの自動車は当時の様々なレースで活躍していましたので、高性能だったようです。その後1910年代には4気筒エンジン搭載の小型車や6気筒エンジン搭載車の大型車が登場しました。第1次大戦中は軍用車、銃弾、航空機用エンジンを製造しました。大戦後に自動車生産を再開しましたが、大量生産されるようになったルノーやシトロエンに対抗できず1933年に破産しました。
ミニカーは1971年頃に発売されたラミー(R.A.M.I.)製です。ラミーはフランスのミニカーメーカーJMK社のブランドで、この車のような初期の自動車を1/43サイズでモデル化していました。モトブロック社の最初の自動車をモデル化しています。名前のトノーとは初期の自動車で後部座席を備える乗用車を意味します。フロント下にあるラジエーター、ヘッドライト、クラクションなど博物館に保管されていた実車を忠実に再現してあり、当時のミニカーとしては良く出来ていました。(参照画像→ モトブロック トノー) リアシートが変わった形状をしていますが、これは後部座席中央背後に乗り降りする為のドアがあるからです。したがって後部座席の側面にはドアがありません。このミニカーはラミーの最後のモデルで、型番2のド ディオン ブートンを置き換える型番2-bとなっています。ラミーとしては製作時期が新しいのでプラスチックメッキ製のホイールが採用されています。モトブロックのミニカーはこれしか無いようです。 以下はフロント/リアの拡大画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
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ジョルジュ リシャール トノー フランス 1902年
1890年代にジョルジュ リシャール(Georges Richard)と彼の兄弟は自転車会社を興していました。彼らは1897年に Societe des Anciens Etablissements Georges Richard(ジョルジュ リシャール事業協会?)を設立し、ドイツのベンツ ビクトリアを真似て自動車製造を始めました。最初の自動車は水冷単気筒708cc(3.5HP)エンジンを搭載した2人乗りの小型車でした。1901年にエンジニアのアンリ ブラジエ(Charles-Henri Brasier)がパートナーとして加わり、社名がリシャール ブラジエ自動車となりました。
1904年にリシャールはブラジエとの関係を悪化させて会社を去りましたので、リシャール ブラジエ自動車は1905年にブラジエ自動車に改名されました。リシャール ブラジエのレースカーは1904年と1905年のゴードン ベネット レースで連続優勝していますので、高性能だったようです。その後もブラジエ自動車は2気筒/4気筒/6気筒エンジン搭載車を発売していましたが、1930年にドライエに買収されて消えました。リシャールはアンリ ド ロスチャイルド(Henri de Rothschild)男爵の経済的援助を得て、1905年にユニック(UNIC)自動車を創立して小型車とタクシーを製造しました。現在ユニックは商用車メーカー イベコの傘下となっています。
ミニカーは1960年代に発売されたラミー(R.A.M.I.)製です。ジョルジュ リシャールの最初の自動車をモデル化しています。名前のトノーとは初期の自動車で後部座席を備える乗用車を意味します。フロント下にあるラジエーター、ランタン、右サイドの操作レバーなど博物館に保管されていた実車を忠実に再現してあり、当時のミニカーとしては良く出来ていました。(参照画像→ ジョルジュ リシャール トノー 1900) リアシートが変わった形状をしていますが、これは後部座席中央背後に乗り降りする為のドアがあるからです。したがって後部座席の側面にはドアがありませんが、後部座席背後のリアドアの下には乗り降りする為のステップがあります。ジョルジョ リシャールの量産ミニカーはこれしか無いようです。(ハンドメイドの少量生産品でレースカーがありました) 以下はフロント/リアの拡大画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
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ルノー タイプ K パリ-ウイーン レース 優勝車 フランス 1902年
1890年代に実用的なガソリン自動車が登場し、プジョーの説明に記載したように、1984年には史上初の自動車レース「パリ-ルーアン」が開催され、その後も同じような自動車レースがさかんに行われるようになりました。当時はサーキットがなかったので、主に都市間を結ぶ公道で行われていました。馬車を走らせていた未舗装の道を高速で数100kmも走るのですから、初期の自動車(とドライバー)には相当過酷なレースでした。レースで勝利することで自社の車の優秀性を示す宣伝効果があったので、7Lや10Lの大排気量エンジンを搭載したレース仕様車が作られるようになりました。
ルノーは1899年の「パリ-トルーヴィユ(Trouville)」レースに創業者のルイ ルノーがヴォワチュレットで参戦し、平均速度約39km/hで1位になりました。それ以後のレースでも好成績を挙げたことでヴォワチュレットは良く知られるようになりました。1902年の「パリ-ウイーン」レースにはタイプ Kのレース仕様車(4気筒3.77Lエンジン)で参戦し、メルセデス(4気筒6.6Lエンジン)やパナール ルヴァッソール(4気筒13.7Lエンジン)などの大排気量車を抑えて、平均速度約63km/hで優勝しました。1903年の「パリ-マドリッド」レースでは経営者のひとりであるマルセル ルノーがドライブする車が事故を起こしてマルセルが事故死を遂げ、さらに沿道の観客を巻き込んだ事故が多発したので、レースは中止となりました。(マルセルは先行車の砂ほこりでコーナーに気づくのが遅れ、コースアウトして死亡しました) この事故を契機として公道レースは禁止となり、レース用のサーキットが建設されるようになりました。
ミニカーは1960年-1970年代に発売されたフランスのクラシックカー専門メーカーのサフィール(SAFIR)製です。サフィールのクラシックカーは当時のミニカーとしてはスケールモデル的なリアルな作風で、細かいところまで良く再現され、かなり良い出来ばえでした。このタイプ Kは「パリ-ウイーン 」レースの優勝車 #147でルノーが復元して展示していた実車をモデル化しています。特徴的な先端が傾斜したボンネット、ボンネット側面のラジエターなどが良く再現されていて、サフィールの傑作ミニカーの一つです。 以下はフロント/リアの拡大画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
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ド ディオン ブートン コルス フランス 1902年
蒸気車製造で創業したド ディオン ブートン社が1895年に開発したガソリンエンジン(単気筒 137cc)は、コイル点火方式を採用し当時としては驚異的な3500rpmの高速回転が可能でした。この高性能エンジンは前述した初期のルノーのレーシングカーに使われていて、小型車クラスで圧倒的な強さを誇りました。ド ディオン ブートンはこの高性能エンジンを搭載した簡易な構成の3輪車を開発して成功しました。その後1899年には運転席と客席が向かい合わせに配置された「ヴィザヴィ」形式の4輪車を開発しこの車もよく売れました。またこのエンジンは高性能であった為に、多くの自動車メーカーに供給されました。
ミニカーはド ディオン ブートン自社製のレーシングカーをモデル化しています。この車は2気筒2250cc(18HP)エンジンを搭載し最高速90km/hの性能で、1903年に開催されたパリーマドリード レースの小型車クラスに出場しています。このレースの大型車クラスには高性能な4気筒エンジンを搭載するメルセデス、パナール ルヴァッソール、ルノーが参戦し、それ以外にも多数の自動車メーカーが参戦していました。レースではルノーの経営者のひとりであるマルセル ルノーがドライブする車が事故を起こしてマルセルが事故死し、さらに沿道の観客を巻き込んだ事故が多発したことで、レースは中止となりました。(したがって順位はつきませんでした)
ミニカーは1960-1970年代にクラシックカーを専門にモデル化していたフランスのラミー(RAMI)製です。50年以上も昔に作られたものですので、現在のミニカーのようにリアルなわけではありませんが、それでも実車の雰囲気を良く再現していました。このド ディオン ブートン コルスはラミーのミニカーとしては後期のもので、フロントグリル、ボンネット、燃料タンクに実車に即したデカールが貼られていて特別に凝った仕上げがされていました。当時このようなデカールが貼られたミニカーはあまりありませんでしたので、当時としてはかなり良い出来ばえになっていました。なおこの凝った仕上げがされたのは初期のものだけで、後にはデカールを省略して仕上げを簡素化したものになりました。 以下はフロント/リアなど各部の拡大画像です。 (画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
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フィアット 12HP イタリア 1902年
前述したフィアット 8HPに続いて10HPが1901年に登場しました。10HPは6HPの改良版で、6HPと同じエンジンをリアに搭載する構造でしたが、前後2列の4人乗り座席を持つフェートン形式のボディを架装していました。(参照画像→フィアット 10HP 1901年) 6HPと同じ直列2気筒1082cc(10HP)エンジンを搭載していたので、ボディが大きくなった分重量が増して性能的にはいまひとつだったようで、数台しか製作されませんでした。
10HPと8HPの後継車として12HPが1901年に登場しました。12HPはフィアット初の4気筒エンジンを搭載した中型車でした。4気筒3770cc(14HP)エンジンをフロントに搭載し、3段変速機を介して後輪をチェーン駆動する構造でした。きちんとしたフロントグリルが付いたボンネットを持つ4人乗りフェートンボディは、見た目が8HPよりも自動車らしくなり、最高速度も70㎞/hと高性能になっていました。12HPは約100台が生産されました。なおこの12HPをベースにしてレース仕様の12HP コルサが開発されました。(参照画像→フィアット 12HP コルサ) この車は軽量で競争力があったので、当時のレースを席巻していたフランスのパナールと互角に戦えたそうです。
ミニカーは1970年代に発売されたイタリアのリオ(RIO)製です。フィアット初期の車のミニカーは自国の車ゆえにリオがたくさんモデル化しています。リオのクラシックカーはマニア向けで灯火類、操作レバー、フェンダーなどの細かいパーツから、シャーシやサスペンションなどのメカ部分までリアルに再現されていました。この12HPもフロントグリル、灯火類、操作レバーとハンドル横のクラクション、床下のサスペンションや後輪駆動チェーンなどがリアルに再現されていて、かなり良い出来ばえです。茶のボディに青のシートのカラーリングもいかにもそれらしく感じがします。 以下はフロント/リアの拡大画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)