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ビッザリーニ マンタ イタリア 1969年
アルファ ロメオやフェラーリの技術者であったジオット ビッザリーニ(Giotto Bizzarrini)は1962年に独立し、ランボルギーニの初期のV型12気筒エンジンやイソ グリフォなどの開発を行いました。1964年にイソ グリフォをベースにしたレーシングカー イソ グリフォ A3Cを開発しビッザリーニ社(Societa Prototipi Bizzarrini)を興しました。その後グリフォ A3Cの市販車仕様のビッザリーニ 5300GTやオペル GTをベースにしたビッザリーニ 1900GT ヨーロッパなどを少量生産しました。ビッザリーニ社は財政的な問題で1969年に自動車生産を止めましたが、その後もランボルギーニなどの開発に携わったようです。(実車画像→ ビッザリーニ 5300GT)
ビッザリーニ マンタは1968年のトリノ ショーで公開されたコンセプトカーで、G.ジウジアーロが興したイタルデザインの最初の作品でした。ノーズ先端からリアエンドまで滑らかな曲線でつながった斬新なデザインが特徴で、G.ジウジアーロ流の美しさがありました。ベースはビッザリーニが設計したミドシップエンジン搭載のレーシングカーP538でした。大きく傾斜したフロントウインド下にあるシートは3人掛けで、ドライバーが中央に座るのでハンドルは中央にありました。上部をカバーしたハーフコンシールド ヘッドライトや3人掛けシートなど、後の量産車デザインに影響を与えたコンセプトカーでした。(実車画像→ ビッザリーニ P538)
ミニカーは1971年に発売されたマーキュリー製の当時物です。マーキュリーとしては後期のモデルでプロポーションは悪くないのですが、コストを下げる為に細部が簡素化されたやや残念な出来ばえになっています。(ただ当時の量販廉価版ミニカーはほとんどがこのような出来ばえでした) それでもハンドルが中央にある室内やリアカウル下に見えるエンジンはそれなりに仕上げてありました。ドアが開閉するギミック付きです。これ以外のビッザリーニ マンタの当時物ミニカーは、コーギー ジュニア(1/55)とこのマーキュリーをコピーしたナコラルがありました。当時物以外では最近スパークがモデル化しています。 以下はフロント/リアの拡大画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
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アルファ ロメオ モントリオール イタリア 1970年
1970年に登場したアルファ ロメオ モントリオールは本格的なスポーツカーでした。この車のプロトタイプが1967年モントリオール万国博覧会にショーカーとして出展されたことがモントリオールという名前の由来でした。アルファ ロメオ 2000GTをベースにして、レーシングカーのティーポ 33用のV型8気筒2.6Lエンジンを200HPにデチューンしてフロントに搭載し、最高速220km/hと高性能でした。
デザインはベルトーネで、1964年に発表されたショーカーのカングーロがベースとなっていました。リアクオーターパネルのエアーベントとまつ毛(スリット付のカバー)の付いたヘッドライトがデザイン上の特徴です。ヘッドライトを点灯するとまつ毛部分は手前に一回転してヘッドライトの下に格納されるようになっています。(実車画像 →アルファ ロメオ モントリオール ライト点灯動画) 当時の価格で770万円(現在換算で3500万円ぐらい)と高価格だったので、1977年までの7年間で約3700台ほどしか生産されていません。
ミニカーは1973年に発売されたポリトーイ製の当時物です。縮尺が1/25のポリトーイ Sシリーズの初期物で、大スケールミニカーの先駆けとなったミニカーでした。このSシリーズは最初の数種類はかなり良い出来ばえでしたが、その後だんだん単に大きいだけの低レベルなミニカーになっていきました。これはSシリーズでは6台目で、プロポーションが良く特徴的なヘッドライト造形は結構リアルで、当時のこのサイズのミニカーとしては良い出来ばえでした。ボンネットとドアが開閉するギミック付きで、エンジンや室内などの細部も大きさに見合ったレベルでそれなりに良く再現されていました。これ以外のモントリオールのミニカーはメーベトイ、マーキュリー、ノレブなど当時物ミニカーがありましたが、ミニカー全体の品質レベルが落ちていった時期だったのであまり良い物がありません。サイズが大きいので当たり前かもしれませんが、当時物ではこのポリトーイが一番出来が良かったです。当時物以外のミニカーではオートアートの1/18、ミニチャンプス、M4、国産名車コレクション(イクソ製)などがあります。 以下はフロント/ボンネットを開いたエンジンルームの画像とリアの画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
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ランチア ストラトス 1600HF ベルトーネ (ストラトス ゼロ) イタリア 1970年
ランチア ストラトス 1600HF (ストラトス ゼロ)は1970年のトリノ ショーで公開されたコンセプトカーでした。ランチアの依頼でベルトーネが「新しい概念のスポーツカー」を提案したもので、確かに従来の概念からは理解できないデザインでした。ストラトスという名前はSTRATOSFERA(イタリア語で成層圏の意)からの造語で、この車が宇宙船をイメージしたものであることを示していました。
ランチア フルビア クーペをベースにしていましたが、極端なウエッジシェイプを実現するためにエンジンはミドシップ搭載に変えられました。運転席がかなり前方の低い位置に配置されているので、サイドウインドーは側面についた「のぞき穴」のようになっています。通常のドアが使えないので、乗り降りはフロントウインドーを開いて行うようになっていました。またリアのエンジンカバーも3角形で横に開くなど、奇抜なデザインがてんこ盛りになっていました。なおヘッドライトらしきものは見当たりません。
コンセプトカーを量産化したいベルトーネは、WRCラリーで勝てる車を模索していたランチアに対して、ストラトスがミドシップエンジン搭載であることを生かしてラリー専用車に仕立てることを提案しました。この提案でラリー専用車ストラトスのプロトタイプが1971年に登場しました。なおコンセプトカーのストラトス ゼロという名前は後からつけた名前で、公開当時はストラトス 1600HFでした。
ミニカーは1971年に発売されたポリトーイ製の当時物です。実車はもっとシャープな造形ですが、実車の奇抜な雰囲気はこのミニカーでも十分再現されていました。フロントウィンドーとリアのエンジンカバーが開閉し、エンジン部分と室内もかなりリアルに再現されていました。特に室内はステアリングホイールを両足の間に挟むF1カーのコクピットのような乗車姿勢となっていることが良くわかります。これ以外の当時物ミニカーは、マーキュリー、メーベトイ、オートピレン(メーベトイのコピー?)がありました。当時物以外では、MIRAGE(hpiレーシング レジン製)や京商(ポリストーン製)などがあります。 以下はフロント/フロントウィンドー開閉の画像とリア/エンジンカバーを開いたエンジンルームの画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
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フェラーリ 312P イタリア 1970年
1968年のレギュレーション変更で、グループ6のプロトタイプ スポーツカーの排気量が3L以下に制限され、フェラーリ 330 P4やフォード GT40などが参戦できなくなりました。それらの大排気量プロトタイプ スポーツカーは北米のカンナム(CAN-AM:カナディアン アメリカン チャレンジカップ)で活動するようになりました。(最高速を抑制するという理由でしたが、ヨーロッパのレースからフォード GT40などのアメリカ勢を締め出すのが目的だったともいわれています)
フェラーリはプロトタイプ スポーツカーへの参戦を1年見送り、1969年シーズンから312Pで参戦しました。312Pは330 P4とほぼ同じシャーシ/サスペンションで、312 F1用のV型12気筒3Lを耐久レース用にディチューンしたエンジンと自社製5速変速機を搭載していました。312Pのデビュー戦は1969年のセブリングで2位でした。その後スパで2位となりますが、ルマンではリタイヤするなどあまり良い結果がでないままシーズンを終えました。
1969年にグループ4スポーツカー(排気量5L)の最低生産台数が50台から25台に引き下げれたことで、排気量の大きいグループ4がプロトタイプより実質的に有利になりました。そこでフェラーリはグループ4の512S(排気量5L)を1970年に登場させました。ところが同じ理由でグループ4に進出したポルシェ 917が圧倒的に強くなり過ぎてレースが成立しなくなった為、1972年からは耐久レースは排気量3Lまでのオープントップ プロトタイプカーに限定することになりました。(当時はころころ変わるレギュレーションに翻弄されていました)
そこで1971年に新レギュレーションに対応したフェラーリ 312 PBが登場しました。オープントップの312 PBは312Pより小さく軽量化され、エンジンは312B F1のエンジンを耐久レース用にディチューンしたものを搭載していました。1971年の312 PBは信頼性が低く、リタイアが多く1勝もしていません。1972年は大幅に改良された312 PBが、出場しなかったルマン以外の10戦を全勝し、マニファクチャーとドライバーズタイトル(J.イクス)を獲得しています。 1973年はレース予算が削減され、強力なライバル マトラの参入もあって、モンザとニュルブルクリングで2勝しルマンは2位で、マトラにマニファクチャラータイトルを奪われました。1974年には親会社フィアットの意向で、フェラーリはスポーツカーレースから撤退し、F1に専念することになりました。(実車画像→ フェラーリ 312 PB)
ミニカーは1992年に発売されたソリド製で、1960-1970年代のソリド製のフェラーリのミニカー 12台を再生産してセットにしたセット物の1台でした。このミニカーのオリジナルは1970年に発売された当時物 フェラーリ 312P (型番177 1969年ルマン仕様)で、オリジナルの金属製ホイールがプラスチック製に変更されていますが、それ以外はオリジナルのままです。付属していたデカールを貼っていませんが、1970年のデイトナ出場車(#24 4位)をモデル化しています。1970年代のビンテージミニカーですので細部は簡素ですが、プロポーションが良く実車のイメージがうまく再現されています。リアカウルが開きエンジンが再現されています。ソリドは312 PBもモデル化していました。312P/PBの当時物ミニカーはディンキー、マーキュリー、ポリトーイ、メーベトイなどがあり、最近の物ではベスト ボックス、ブルムなどがあります。 以下はフロントの拡大画像とリア/リアカウルを開いたエンジンルームの画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
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フェラーリ 512S モデューロ ピニンファリーナ イタリア 1970年
フェラーリ 512S モデューロは1970年のジュネーブ ショーで公開されたコンセプトカーでした。前述したフェラーリ 512S ベルリネッタと同じピニンファリーナによるミドシップ スポーツカーで極めて未来的なデザインでした。MODULO(イタリア語でモジュールの意)という名前は、分割したモジュールの組合せでボディを構成するというこの車のコンセプトを意味していました。このコンセプトではキャビン部モジュールを屋根を外したモジュールに交換すれば2シーターのオープンカーになり、4シーターのモジュールに交換すれば4シーターのリムジンになるというものでした。ドアはなくキャビン上部がキャノピー式に前にスライドして開閉し、ヘッドライトはリトラクタブル式でした。
このコンセプトカーはタイヤの存在を意図的に隠しているので、自動車というよりも宇宙船のような感じがします。ただ前輪を操舵するスペースが十分に無いようにみえるので、まともにカーブを曲がれるのかどうか疑問です。この車は1970年の大阪万博のイタリア館に未来の車として展示され人気を博しました。1970年に登場したモデューロでしたが、この車以上に未来的なコンセプトカーは2022年現在でも出ていないように思います。なお名前が512Sとなっていますが、実際にはカンナム レース用に開発した612Pのシャーシを使っていたとのことです。
ミニカーは1972年に発売されたマーキュリー製の当時物で縮尺1/32と大きめのミニカーです。車高が高めで実車の平べったいイメージが今一つなプロポーションですが、当時のミニカーとして全体的には良い出来ばえでした。実車同様にキャビン上部キャノピーがスライドしリアカウルが開閉できます。2シーターの内装やリアカウル下のV型12気筒エンジンも良く再現されています。この黒のカラーリングは公開された時のカラーリングを再現したものです。(大阪万博で展示されたモデューロは白でしたが) これ以外の当時物ミニカーはポリトーイとそれをコピーしたオートピレンがあります。当時物以外ではレッドラインやミニ ミニエラのレジン製などがあります。 以下はフロント/リアの拡大画像とリアカウルを開いたエンジンルームの画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)