Sorry Japanese Only
ジョルジュ リシャール トノー フランス 1902年
1890年代にジョルジュ リシャール(Georges Richard)と彼の兄弟は自転車会社を興していました。彼らは1897年に Societe des Anciens Etablissements Georges Richard(ジョルジュ リシャール事業協会?)を設立し、ドイツのベンツ ビクトリアを真似て自動車製造を始めました。最初の自動車は水冷単気筒708cc(3.5HP)エンジンを搭載した2人乗りの小型車でした。1901年にエンジニアのアンリ ブラジエ(Charles-Henri Brasier)がパートナーとして加わり、社名がリシャール ブラジエ自動車となりました。
1904年にリシャールはブラジエとの関係を悪化させて会社を去りましたので、リシャール ブラジエ自動車は1905年にブラジエ自動車に改名されました。リシャール ブラジエのレースカーは1904年と1905年のゴードン ベネット レースで連続優勝していますので、高性能だったようです。その後もブラジエ自動車は2気筒/4気筒/6気筒エンジン搭載車を発売していましたが、1930年にドライエに買収されて消えました。リシャールはアンリ ド ロスチャイルド(Henri de Rothschild)男爵の経済的援助を得て、1905年にユニック(UNIC)自動車を創立して小型車とタクシーを製造しました。現在ユニックは商用車メーカー イベコの傘下となっています。
ミニカーは1960年代に発売されたラミー(R.A.M.I.)製です。ジョルジュ リシャールの最初の自動車をモデル化しています。名前のトノーとは初期の自動車で後部座席を備える乗用車を意味します。フロント下にあるラジエーター、ランタン、右サイドの操作レバーなど博物館に保管されていた実車を忠実に再現してあり、当時のミニカーとしては良く出来ていました。(参照画像→ ジョルジュ リシャール トノー 1900) リアシートが変わった形状をしていますが、これは後部座席中央背後に乗り降りする為のドアがあるからです。したがって後部座席の側面にはドアがありませんが、後部座席背後のリアドアの下には乗り降りする為のステップがあります。ジョルジョ リシャールの量産ミニカーはこれしか無いようです。(ハンドメイドの少量生産品でレースカーがありました) 以下はフロント/リアの拡大画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
このページではなくこの記事へのリンクURLは以下となります
https://minicarmuseum.com/historic/his_link.php?id=2034
ルノー タイプ K パリ-ウイーン レース 優勝車 フランス 1902年
1890年代に実用的なガソリン自動車が登場し、プジョーの説明に記載したように、1984年には史上初の自動車レース「パリ-ルーアン」が開催され、その後も同じような自動車レースがさかんに行われるようになりました。当時はサーキットがなかったので、主に都市間を結ぶ公道で行われていました。馬車を走らせていた未舗装の道を高速で数100kmも走るのですから、初期の自動車(とドライバー)には相当過酷なレースでした。レースで勝利することで自社の車の優秀性を示す宣伝効果があったので、7Lや10Lの大排気量エンジンを搭載したレース仕様車が作られるようになりました。
ルノーは1899年の「パリ-トルーヴィユ(Trouville)」レースに創業者のルイ ルノーがヴォワチュレットで参戦し、平均速度約39km/hで1位になりました。それ以後のレースでも好成績を挙げたことでヴォワチュレットは良く知られるようになりました。1902年の「パリ-ウイーン」レースにはタイプ Kのレース仕様車(4気筒3.77Lエンジン)で参戦し、メルセデス(4気筒6.6Lエンジン)やパナール ルヴァッソール(4気筒13.7Lエンジン)などの大排気量車を抑えて、平均速度約63km/hで優勝しました。1903年の「パリ-マドリッド」レースでは経営者のひとりであるマルセル ルノーがドライブする車が事故を起こしてマルセルが事故死を遂げ、さらに沿道の観客を巻き込んだ事故が多発したので、レースは中止となりました。(マルセルは先行車の砂ほこりでコーナーに気づくのが遅れ、コースアウトして死亡しました) この事故を契機として公道レースは禁止となり、レース用のサーキットが建設されるようになりました。
ミニカーは1960年-1970年代に発売されたフランスのクラシックカー専門メーカーのサフィール(SAFIR)製です。サフィールのクラシックカーは当時のミニカーとしてはスケールモデル的なリアルな作風で、細かいところまで良く再現され、かなり良い出来ばえでした。このタイプ Kは「パリ-ウイーン 」レースの優勝車 #147でルノーが復元して展示していた実車をモデル化しています。特徴的な先端が傾斜したボンネット、ボンネット側面のラジエターなどが良く再現されていて、サフィールの傑作ミニカーの一つです。 以下はフロント/リアの拡大画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
このページではなくこの記事へのリンクURLは以下となります
https://minicarmuseum.com/historic/his_link.php?id=42
ド ディオン ブートン コルス フランス 1902年
蒸気車製造で創業したド ディオン ブートン社が1895年に開発したガソリンエンジン(単気筒 137cc)は、コイル点火方式を採用し当時としては驚異的な3500rpmの高速回転が可能でした。この高性能エンジンは前述した初期のルノーのレーシングカーに使われていて、小型車クラスで圧倒的な強さを誇りました。ド ディオン ブートンはこの高性能エンジンを搭載した簡易な構成の3輪車を開発して成功しました。その後1899年には運転席と客席が向かい合わせに配置された「ヴィザヴィ」形式の4輪車を開発しこの車もよく売れました。またこのエンジンは高性能であった為に、多くの自動車メーカーに供給されました。
ミニカーはド ディオン ブートン自社製のレーシングカーをモデル化しています。この車は2気筒2250cc(18HP)エンジンを搭載し最高速90km/hの性能で、1903年に開催されたパリーマドリード レースの小型車クラスに出場しています。このレースの大型車クラスには高性能な4気筒エンジンを搭載するメルセデス、パナール ルヴァッソール、ルノーが参戦し、それ以外にも多数の自動車メーカーが参戦していました。レースではルノーの経営者のひとりであるマルセル ルノーがドライブする車が事故を起こしてマルセルが事故死し、さらに沿道の観客を巻き込んだ事故が多発したことで、レースは中止となりました。(したがって順位はつきませんでした)
ミニカーは1960-1970年代にクラシックカーを専門にモデル化していたフランスのラミー(RAMI)製です。50年以上も昔に作られたものですので、現在のミニカーのようにリアルなわけではありませんが、それでも実車の雰囲気を良く再現していました。このド ディオン ブートン コルスはラミーのミニカーとしては後期のもので、フロントグリル、ボンネット、燃料タンクに実車に即したデカールが貼られていて特別に凝った仕上げがされていました。当時このようなデカールが貼られたミニカーはあまりありませんでしたので、当時としてはかなり良い出来ばえになっていました。なおこの凝った仕上げがされたのは初期のものだけで、後にはデカールを省略して仕上げを簡素化したものになりました。 以下はフロント/リアなど各部の拡大画像です。 (画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
このページではなくこの記事へのリンクURLは以下となります
https://minicarmuseum.com/historic/his_link.php?id=44
ミュゼ フェートン 2シーター フランス 1903年
1867年にクロード ミュゼ(Claude Mieusset)は、フランスのリヨンに消防ポンプを製造する会社を設立しました。同社は手動や蒸気機関/内燃エンジンで駆動する消防ポンプを製造しました。同社は世界初の3気筒ガソリンエンジンをドイツのベンツやダイムラーよりも早い時期に製造していました。1898年に製作した最初の自動車は馬車の後部にエンジンを搭載した物で、まだ馬車と同じ形をしていました。1903年にミュゼ有限会社(Soci?te des Etablissements Mieusset)を設立して自動車生産を始めました。
同社のエンジンは高性能だったので、初期に生産されたミュゼはレースで活躍したようです。1903年頃には単気筒エンジンを搭載した小型車から2気筒/4気筒エンジンを搭載した中型/大型車を発売していました。エンジン性能が向上したことでミュゼは商用車やモーターボートも製造するようになりましたが、1910年に破産しました。再起した新会社 Mieusset P?re et Fils(ミュゼの息子社?)は消防車を生産しましたが、第1次世界大戦で息子のヴィンセント ミュゼ(Vincent Mieusset)が亡くなり会社は消えました。
ミニカーは1960年代に発売されたラミー(R.A.M.I.)製です。ミュゼ初期の小型車をモデル化しているようです。ラミーはフランスのミニカーメーカーJMK社のブランドで、この車のような初期の自動車を1/43サイズでモデル化していました。実車の詳細は不明ですが、博物館に保管された実車を忠実に再現しているようです。ラミーとしては後期のモデルなので、フロントグリルや灯火類にメッキしたプラスチック製パーツが使われ、当時のミニカーとしては良く出来ていました。またラミーとしては珍しくメタリックカラー(薄赤)が採用されていました。ミュゼのミニカーはこれしか無いようです。 以下はフロント/リアの拡大画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
このページではなくこの記事へのリンクURLは以下となります
https://minicarmuseum.com/historic/his_link.php?id=2035
デローネ ベルヴィル フランス 1904年
船舶用ボイラーを製造していたベルヴィル社を引き継いだルイス デローネ(Louis Delaunay)は1903年にデローネ ベルヴィル自動車(S.A. des Automobiles Delaunay-Belleville)を設立しました。この会社にベンツの技師長であったマリウス バルバロウ(Marius Barbarou)が入社して開発した最初の自動車が1904年のパリ サロンで発表されました。この車の1908年式は4気筒3.7L(38HP)エンジンを搭載する大型高級車で4段変速で最高速88㎞/hの性能でした。(1904年式もほぼ同じような性能だったと思います) この車は世界初のクランクシャフト圧力潤滑や水冷式ブレーキなどの高度な設計で製造品質も優れていたので高い評価を受けました。
4気筒エンジン搭載車には排気量の異なる3モデル(16HP/24HP/40HP)があり、1909年にはフランスで初めて6気筒エンジンを搭載した70HP(排気量12L)が追加されました。デローネ ベルヴィルはその品質の高さから「フランスのロールス ロイス」と呼ばれ、当時の最高級車としてロシア皇帝やスペイン国王など当時の貴族/上流階級が購入しました。1919年に4気筒2Lエンジンを搭載する高級な小型車が登場しました。1914年にバルバロウが退社してからデローネ ベルヴィルの品質は低下しました。1920年代後半にはその名声が失われ、同社はトラックと軍用車を生産するようになりました。第2次大戦後に乗用車生産を復活させましたが、車はほとんど売れず1950年に会社は消えました。
ミニカーは1960年代に発売されたラミー(R.A.M.I.)製です。デローネ ベルヴィルの最初の車をモデル化しています。 ラミーはフランスのミニカーメーカーJMK社のブランドで、この車のような初期の自動車を1/43サイズでモデル化していました。この車は当時は有名な最高級車でしたのでWEB上に画像がたくさんあります。それを見ると、このミニカーはドローネ ベルヴィルの外観上の特徴である丸いラジエーターとボンネットがうまく再現されているなど、実車の雰囲気が良く再現されています。1960年代のミニカーですからフロントグリルや幌も金属製パーツで、プラスチック製パーツよりリアルさは劣りますが、重厚な感じがします。実車は高級車らしい落ち着いたカラーリングでしたが、ミニカーは見ばえがするようカラフルに仕上げてあります。1910年代の名車であったデローネ ベルヴィルですが、量産ミニカーはこれしか無いようです。(レジン製の少量生産品があるようですが) 以下はフロント/リアの拡大画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
このページではなくこの記事へのリンクURLは以下となります
https://minicarmuseum.com/historic/his_link.php?id=2036
当サイト掲載記事の無断転載を禁じます。
Copyright(C) 2004-2024 MINIATURECAR MUSEUM All rights reserved.