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デューセンバーグ J デュアル カウル フェートン ゲイリー クーパー アメリカ 1930年
ドイツから移民してきたデューセンバーグ兄弟が、レーシングカーを作る目的で1914年に設立したのがデューセンバーグ社でした。当初は航空機用エンジンを製造し、ブガッティの航空機用エンジンの国産化を行いました。1920年に8気筒4.3Lエンジンを搭載し世界初の油圧ブレーキを備えた、自社初の市販車モデル Aを発売しました。(実車画像→ デューセンバーグ モデル A) デューセンバーグのレースカーは1923年のフランスGPでアメリカ車として初めてのGP優勝、1924年と1925年のインディで優勝などレースで大活躍しています。ただモデル Aは高価すぎて売れず、ビンテージ期で述べたエレット ローバン コードが経営する「コード帝国」に1926年に買収されました。
コード傘下で1928年に発表されたモデル Jはデューセンバーグを一躍有名にしました。モデル Jはアメリカ最大、最速、最高品質を目指して開発され、値段も当時最高の超豪華車でした。サイズは全長約5.6m(リムジーン)、性能は当時レーシングカーしか採用していなかったDOHC方式8気筒6.9L(265HP)エンジンを搭載し最高速180km/h、コーチビルダーが特注ボディを架装して販売され、その価格は大衆車T型フォードの約40倍でした。この車を買えたのは当時のハリウッドの大スターや王侯貴族だけでした。
ボディは有名なコーチビルダーが担当し華麗なデザインのボディが架装されました。ボディ形式としては4ドアセダン、2ドアクーペ、スパイダー、フェートン(4座オープン)、デュアル カウル フェートン(前席/後席にスクリーンが付いた4座オープン)などがありました。デュアル カウル フェートンの後席のスクリーンはその下にあるハンドルで上下させることが出来ました。最も高価なモデルは当時の価格が2万ドルであったことから「トゥエンティ グランド」と呼ばれていました。
ミニカーは1987年に発売されたフランクリン ミント製の1/24で、す。(なお当時フランクリン ミントのミニカーは国内では同社の通信販売でしか購入できませんでした) 映画俳優ゲイリー クーパーが購入した黄/薄緑のツートンカラーのデュアル カウル フェートン(コーチビルダーのダーハム(DERHAM)社が架装)をモデル化しています。フランクリン ミントは現在のオートアートなどの大スケールミニカーの先駆けで、シャーシ/エンジン/サスペンションなどのメカ部分が金属製パーツ主体で再現されドアやボンネットが全て可動する、当時としては最も精密なミニカーでした。このデューセンバーグも実車の雰囲気がうまく再現されています。4ドアが開閉し室内が再現されていて、ボンネットを開くとリアルなエンジンが再現されています。さらにステアリングホイールと連動した前輪操舵ギミック付きです。当時の価格は18000円と安いものではなかったですが、その価格に見合った素晴らしい出来ばえでした。 以下はフロント(マスコット拡大 前輪操舵動作)/リアの拡大画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
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デューセンバーグ J セダン アメリカ 1931年
ドイツから移民してきたデューセンバーグ兄弟が、レーシングカーを作る目的で1914年に設立したのがデューセンバーグ社でした。当初は航空機用エンジンを製造し、ブガッティの航空機用エンジンの国産化を行いました。1920年に8気筒4.3Lエンジンを搭載し世界初の油圧ブレーキを備えた、自社初の市販車モデル Aを発売しました。デューセンバーグのレースカーは1923年のフランスGPでアメリカ車として初めてのGP優勝、1924年と1925年のインディで優勝などレースで大活躍しています。ただモデル Aは高価すぎて売れず、ビンテージ期で述べたエレット ローバン コードが経営する「コード帝国」に1926年に買収されました。
コード傘下で1928年に発表されたモデル Jはデューセンバーグを一躍有名にしました。モデル Jはアメリカ最大、最速、最高品質を目指して開発され、値段も当時最高の超豪華車でした。サイズは全長約5.6m(リムジーン)、性能は当時レーシングカーしか採用していなかったDOHC方式8気筒6.9L(265HP)エンジンを搭載し最高速180km/h、コーチビルダーが特注ボディを架装して販売され、その価格は大衆車T型フォードの約40倍でした。この車を買えたのは当時のハリウッドの大スターや王侯貴族だけでした。
ミニカーはソリド製で、1960-1970年代に作られたクラシックカーシリーズ(AGE D'EOR シリーズ)の一つで1972年に購入しました。デューセンバーグとしてはおとなしいオーソドックスなセダンをモデル化しています。このクラシックカーシリーズは大人のマニア向けでしたので、スケールモデル的でリアルな造形がされ、当時としては素晴らしい出来ばえでした。「デューセンバード」と呼ばれる鳥のマスコットの付いたフロントグリル、ボンネット内に再現されたリアルなエンジン、ドアが開閉するキャビンなど細かいところもよく再現されています。ソリドはバリエーションでスパイダーもモデル化しています。これ以外のモデル Jのミニカーとしては、ビンテージものではドゥグー、リオ、マッチボックスなど、最近の物ではフランクリンミントの1/43と1/24、シグネチャーの1/32、ミニチャンプスなどがあります。 以下はフロント(マスコット拡大)/リアの拡大画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
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デューセンバーグ J スパイダー アメリカ 1931年
デューセンバーグは1926年にコードに買収されました。コード傘下で1928年に発表したモデル Jはデューセンバーグを一躍有名にしました。モデル Jはアメリカ最大、最速、最高品質を目指して開発されました。当時はレーシングカーしか採用していなかったDOHC方式の8気筒6.9L(265HP)エンジンを搭載し、3段変速で最高速180km/hの性能でした。1932年にはスーパーチャージャーでエンジンを320HPにパワーアップし最高速208km/hとした高性能版のSJが追加されました。SJはボンネット右側面から排気管が出ています。
ボディ形式としては4ドアセダン(リムジン)、2ドアクーペ、スパイダー、フェートン(4座オープン)、ダブル カウル フェートン(前席/後席にスクリーンが付いた4座オープン)などがあり、全長は5.6mを超える大柄なサイズでした。著名なコーチビルダーが華麗なデザインの特注ボディを架装して販売され、その価格は当時の大衆車フォード T型の約40倍で、当時最高の超豪華高級車でした。したがってこの車を買えたのはハリウッドの大スターや王侯貴族だけでした。最も高価なモデルは当時の価格が2万ドルであったことから「トゥエンティ グランド(Twenty Grand)」と呼ばれていました。
ミニカーは1976年に発売されたソリド製です。前述したソリドのJ セダンのバリエーションで、ボディ後半を変更して2シーター スパイダーをモデル化しています。巨大なボディに小さな2シーターのキャビンという贅沢なスペース配置は、いかにも昔のアメリカ車的なスタイルです。前述したJ セダンと同様に実車の雰囲気がうまく再現されていて良く出来ています。室内はインパネが紙シールで再現され、ボンネットを取り外すとエンジンが再現されています。これ以外のデューセンバーグ J スパイダー(クーペ)のミニカーは、リオ、シグネチャーの1/32、デルプラドのSSJ、ミニチャンプスのコンバーチブル クーペ、イクソのSSJ、マトリックス(レジン製)のSJなどがあります。 以下はフロント/リアの拡大画像とエンジン/室内の画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
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デューセンバーグ J コンバーチブル ビクトリア アメリカ 1933年
コード傘下となったデューセンバーグが1928年に発表したモデル Jはデューセンバーグを一躍有名にしました。モデル Jはアメリカ最大、最速、最高品質を目指して開発され、値段も当時最高の超豪華車でした。サイズは全長約5.6m(リムジーン)、性能は当時レーシングカーしか採用していなかったDOHC方式8気筒6.9L(265HP)エンジンを搭載し最高速180km/h、コーチビルダーが特注ボディを架装して販売され、その価格は大衆車T型フォードの約40倍でした。この車を買えたのは当時のハリウッドの大スターや王侯貴族だけでした。
ボディは有名なコーチビルダーが担当し華麗なデザインのボディが架装されました。ボディ形式としては4ドアセダン、2ドアクーペ、スパイダー、フェートン(4座オープン)、ダブル カウル フェートン(前席/後席にスクリーンが付いた4座オープン)などがありました。最も高価なモデルは当時の価格が2万ドルであったことから「トゥエンティ グランド」と呼ばれていました。
この車は往年のハリウッドの名女優グレタ ガルボ(Greta Garb もう知らない人が多いでしょうが)が所有していたとされる、デューセンバーグ J コンバーチブル ビクトリアです。全長が6mを越える長い車で少し奇抜なデザインですが、最も優美なデューセンバーグとも言われています。極端に低いウインドシールドと大きなドアを持ち、リアには巨大なトランクと2本のスペアタイヤを背負っています。幌を立てると後席に乗車しているオーナーの姿はほとんど見えないようになっています。ボディを架装したのはフランスのコーチビルダー ダリンでした。
ミニカーはフランクリン ミント製の1/24で、1990年頃に購入しました。当時フランクリン ミントのミニカーは国内では同社の通信販売でしか購入できませんでした。フランクリン ミントは現在のオートアートなどの大スケールミニカーの先駆けで、シャーシ/エンジン/サスペンションなどのメカ部分が金属製パーツ主体で再現されドアやボンネットが全て可動する、当時としては最も精密なミニカーでした。このデューセンバーグ Jもプロポーションが良く、実車の雰囲気がうまく再現され、とても良い出来ばえでした。ボンネット/ドアの開閉ギミック付きで、ステアリングホイールと連動した前輪操舵ギミックも付いています。床下部分のドライブトレーン/サスペンションなどもリアルに再現されています。当時の価格は29500円とかなり高価でしたが、その価格に見合った素晴らしい出来ばえでした。以下はフロント/リアの拡大画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
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デューセンバーグ SJ フィッシュ テール アメリカ 1933年
前述したようにデューセンバーグ Jは1929年から始まった世界大恐慌の時代に成功しており、当時のユーザーはまだ不況とは無関係だったようです。このようなユーザーに向けてさらに高級な車が1932年に発表されました。スーパーチャージャーを追加して320HPにパワーアップし最高速250km/hに性能を向上させたモデル SJでした。スーパーチャージャーの追加で排気管がボンネット右側面から取り出されるようになり迫力のある外観となっていました。
ただデューセンバーグが輝いていたのはほんの数年でした。1932年にデューセンバーグ創始者のフレッドが、自分が開発したSJでの自動車事故で死亡しました。これと呼応するかのようにデューセンバーグを有するコード帝国もコード L29の販売不振から崩壊し始め、1937年にデューセンバーグ社は倒産しました。
前述したデューセンバーグ J ビクトリアは全長の長い車でしたが、このミニカーがモデル化しているデューセンバーグ SJも同じくらい長い車でした。ボディはアメリカのコーチビルダー ウェイマン(WEYMANN)が架装していて、そのリアの形状からFISH TAIL(魚のしっぽ)と名付けられていました。2座のオープンボディでテール部分にはトランクらしきものがありますが、ほとんどがデッドスペース?で現在では考えられない贅沢なスペースの使い方です。現在のような実用性重視で合理的に設計された車とは全くの別物で、このような無駄に思える虚飾を追及していることがこの種の車の魅力なのです。
ミニカーは1993年に発売されたリオ製です。1970年代に発売されたリオ製のデューセンバーグ SJのバリエーションで、ボディ後半の型を大幅に変更してこの特徴的なボディを再現しています。ボディ全体を上から見ると、車というよりもボートのような形状をしています。ボンネットの上部を取り外すことができ、ボンネット右側面から出る排気管を持つスーパーチャージャー付エンジンもそこそこリアルに再現されています。(なお実車のボンネットはこんな具合に開いたのではありませんが) 以下はフロント/リアの拡大画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)