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ビアンキ 20/30HP ランドレー イタリア 1905年
ビアンキ社は1885年にエドアルド ビアンキ(Edoardo Bianchi)が自転車メーカーとして設立しました。同社の自転車は安全で使いやすく1930年代にはイタリアの主要な自転車メーカーとなっていました。同社は1900年頃からバイクと自動車の製造も手掛けるようになり、イタリアの自動車メーカーのパイオニアでもありました。最初の自動車は単気筒エンジンを搭載した小型車でした。その後1905年頃から4気筒(3L-8L)エンジンを搭載した数車種のモデルを製造していました。ビアンキは1918年まではフィアットに次ぐ大きな自動車メーカーでした。
1914年頃にはフィアット 0に対抗する4気筒1.2Lエンジンを搭載したティーポ Sが登場しました。この車は改良されて1930年代まで製造され、ビアンキは主に小型で高品質の車を作っていました。1930年には8気筒3Lエンジンを搭載するティーポ S8が登場しましたが、あまり売れせんでした。乗用車の販売が不振となり、ビアンキはトラックなどの大型商用車生産に注力しました。第2次大戦後に経営不振となり、自動車部門はフィアットの資本参加でアウトビアンキ社として独立しました。アウトビアンキはフィアット傘下でプリムラ、パノラミカなどの小型車を生産していましたが最終的にフィアットに吸収されました。
ミニカーは1970年代に発売されたリオ製です。ミニカーに同梱されていたリオの解説書によると、この車は4気筒5L(25HP)エンジンを搭載した20/30HPをモデル化しているそうです。ただしこのミニカーのような外観の実車について説明した資料や画像がWEB上で見つからないので裏付けはとれていません。したがって実車の詳細は不明ではありますが、馬車時代の名残りを感じられる優雅な形状のキャビンと綺麗なカラーリングがこのミニカーの魅力です。1970年代当時のリオのクラシックカーのミニカーは他社を圧倒する素晴らしい出来ばえでしたが、2023年現在でも一級品レベルの出来ばえといえます。(現在この時代のクラシックカーはほとんどモデル化されていませんが) このビアンキは独特な雰囲気のボディやカラーリングなどが好きで、私のお気に入りの一台です。 以下はフロント/リアの拡大画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
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フィアット F2 (130HP) イタリア 1907年
フィアット 75HPの解説に記載したように、当時の自動車メーカーは宣伝の為にレースや速度記録挑戦に熱心でした。フィアットが総力を挙げて製作したフィアット F2 130HPは、1907年の3大レース イタリアのタルガ フロリオ、カイゼル プライス(ドイツ GP)、フランス GPを全て制覇する偉業を達成しました。ドライバーは3レース全てフェリーチェ ナッザーロ(Felice Nazzaro)でした。このレースカーは4気筒16.3L(130HP)の巨大なエンジンを搭載し、1907年のフランス GP(サーキット10周770㎞)では平均時速113.612km/hで優勝しています。なお名前のF2はこの車に付けられたゼッケン番号のことで、当時はどのレースでも同じゼッケン番号を使っていたようです。
1908年にフランス GPが中止になり欧州のレースは下火になり、レースの中心は一時的にアメリカでのレースになりました。このアメリカのレースでもフィアットは活躍しました。アメリカのレース用として開発されたフィアット S61はツインプラグの4気筒10L(115HP)エンジンを搭載し最高速は160km/h以上でした。S61は1911年のインディ 500で3位となり、1912年のサンタ モニカ GP(アメリカ GP)で優勝しました。また1911年のフォーミュラー リブレ(ツーリングカー改造車のレース)で行われたフランス GPでも優勝しました。フィアットはその後も第1次大戦前までレースカーを製作していましたが、あまり活躍しなかったようです。
ミニカーは1960-1970年代に発売されたクラシックカーの専門ブランドのドゥグー製です。ドゥグーは大人のマニア向けのミニカーで、イタリアのビスカレッティ自動車博物館に保存されていた実車をモデル化していました。このフィアット F2も本革製のボンネットの固定ベルト、布張りのサイドカバー、リアの燃料タンク上の銅製の配管、後輪を駆動するチェーンなど凝った作りで、実車を忠実に再現したドゥグーの傑作ミニカーでした。特に後輪を駆動するチェーンはスケールモデル的にはオーバースケールなのですが、このサイズで実際に可動するのは秀逸でよく作ったものだと思います。(実物とはサイズが違いますが実際に動くのは面白いです) なおドゥグーのミニカーには合成ゴムのタイヤに含まれる可塑剤(有機溶剤)がプラスチック製ホイールを溶かすという問題があり、このF2もホイールが溶けてしまったので、ホイールを別のミニカーの物に交換してあります。(ホイールを交換してない物の画像はこちらにあります。→ ミニカーの材質と経年変化) これ以外のフィアット F2のミニカーはブルムの物があり、ブルムはフィアット S61もモデル化しています。 以下はフロント/リアの拡大画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
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イターラ 北京-パリ レース 優勝車 イタリア 1907年
イタリアのチェイラーノ兄弟はイタリア自動車産業の創世記に重要な役割を果たした人物でした。1898年にジョヴァンニ バッティスタ チェイラーノとマッテオ チェイラーノが共同で設立したチェイラーノ GB&C社が自動車製造を始め、2気筒エンジンを搭載する小型車を開発しました。この会社は1899年に設立されたフィアット(FIAT)社が買い取り、開発されていた車はフィアット 1号車として発売されました。その後ジョヴァンニ バッティスタはフィアットを去り、STAR社(後にフィアット傘下となる)を設立しています。マッテオ チェイラーノは1904年にイターラ(ITALA)社を設立しました。
イターラ社はレースで活躍して有名になりました。1905年に開催されたコッパ フロリオでは14.5Lの大排気量エンジンを搭載するイターラ 112HPで優勝し、1906年の第1回タルガ フロリオでも優勝しました。(実車画像→ イターラ 112HP) さらにイターラを有名にしたのは1907年に行われた世界最長の「北京-パリ」レースでの勝利でした。「北京-パリ」レースは文字どおり中国 北京を出発してシベリアを経由してフランス パリまでの16000kmを走るという壮大な冒険レースでした。(参加したのはド ディオン プートンなど5台だけでした) このレースを44日間(1日平均364㎞)で走り切り優勝したのがイターラでした。優勝車は4気筒7433cc(45HP)エンジンを搭載し4段変速で最高速100km/hの性能でした。このレースの勝利はイターラの販売に大きく寄与しました。
ミニカーは1961年に発売されたイタリアのリオ製です。クラシックカー専門ブランドとして1961年に登場したリオのミニカーは、大人のコレクターを対象としたリアルな造形で 、当時の玩具としてのミニカーとは一線を画す画期的なものでした。これは「北京-パリ」レースの優勝車をモデル化していて、ボディに書かれた「PARIGE PECHINO」はイタリア語で「パリ 北京」の意で、運転席後方の補助席、ガソリンタンク、スペアタイヤなどのレース仕様が忠実に再現されています。現在的な感覚でみても良く出来たミニカーですが、これは60年以上前に発売されたのです。なお画像の物は1978年に入手したものですので、最初に発売されたものとはパーツの材質が変更されています。例えばボンネットの固定バンドですが、これはプラスチック製ですが、初期物は本物の皮革が使われていました。(参照ページ→ 初期の物との比較画像) ただし材質変更以外は最初に発売されたものと同じです。このミニカーは型番4002や型番4224でリニューアルして販売され、2012年にもリオの50周年記念品として特別カラーで新規に発売されています。多少型を修正したり仕上げを変更したりしていますが、たぶん世界一長期間ほぼ同じ状態で作られてきたミニカーだと思います。 以下はフロント/リアの拡大画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
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レニャーノ 6/8HP イタリア 1908年
イタリアの技術者であったG.ギオルディ(Guglielmo Ghioldi)は内燃機関を利用した発電機などを製造する機械工場を設立しました。この工場は業績を伸ばし、1902年にイタリア北部の都市レニャーノに移転し、産業用の配電業務も始めました。その後G.ギオルディは1906年に内燃機関を搭載する自動車を製造するFIAL社(Fabbrica Italiana Automobili Legnano:イタリアの自動車工場レニャーノ)を設立しました。1906年に最初の自動車レニャーノ 6/8HPが発売されました。
レニャーノ 6/8HPは水冷2気筒1.1Lエンジン(8HP)を搭載したシンプルな構造の2人乗りの小型車でした。この車はFIAL社が期待したほどは売れず、1908年にFIAL社は清算されました。FIAL社は経営者が変わりFIAL-レニャーノ社に改名され、自動車販売を継続しましたが1913年に会社は廃止されました。ただ在庫処分の為にレニャーノ ブランドは存続していましたので、自動車をあきらめていなかったG.ギオルディは単気筒エンジンを搭載したモーターサイクルと4気筒エンジンに改良したレニャーノ 9/12HPを1915年に追加して販売しました。その後第1次世界大戦にイタリアが参戦したので、G.ギオルディは本業の軍事用発電機の製造に専念することになりました。
ミニカーは1960-1970年代に販売されたドゥグー製です。ドゥグーは大人のマニア向けのクラシックカー専門のミニカーメーカーで、イタリアのビスカレッティ自動車博物館(現在はトリノ自動車博物館)に保存されていた実車をモデル化していました。このレニャーノ 6/8HPはドゥグーの廉価版であったMUSEOシリーズの1台で、全長68㎜ほどの小さなミニカーです。博物館の実車を忠実にモデル化していて、LEGNANOのロゴが付いた特徴的な円形のフロントグリルや灯火類などがうまく再現されています。ボンネットを固定している革ベルトには本物の革が使われています。幌を立てたバリエーションもありました。なおレニャーノのミニカーはこれしかありません。 以下はフロント/リアの拡大画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
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ブリクシア ツュスト 10HP イタリア 1908年
スイス出身のイタリアの技術者R.ツュスト(Roberto Zust)はミラノでガソリンエンジン車を開発し、1905年に自動車を製造するツュスト社を設立しました。最初のモデルは4気筒7.4L/11.3Lエンジンを搭載した高価な大型車だったようです。1908年に4気筒7.4Lエンジンを搭載したツュスト 28/45HPがニューヨーク-パリ間を走破する長距離レースに参戦し3位となっています。なおこのレースではアメリカのトーマス フライヤーが優勝しています。(壮大な長距離レースの概要はトーマス フライヤーの解説に記載しています)
1906年にR.ツュストは小型車を製造する別会社として、イタリア北部のブレシア市(ローマ時代にはブリクシアと呼ばれた)にブリクシア ツュスト社を設立しました。この会社はタルガ フローリオに参戦したレーシングカーなどを製造しました。一番有名なモデルはブリクシア ツュスト 10HPで3気筒1.4L(10HP)エンジンを搭載した中型車でした。ブリクシア ツュスト社は財政難で1912年に生産を中止しましたが、ツュスト社はミラノからブレシア市に移転し1914年まで生産が続けられました。ツュスト社は1917年にイタリアの自動車/商用車メーカーのOM(Officine Meccaniche)社に買収されましたが、4.7Lエンジンを搭載した最後のモデル ツュスト S305は1923年まで生産されました。
ミニカーは1960-1970年代に販売されたドゥグー製です。ブリクシア ツュスト 10HPをモデル化しています。ドゥグーは大人のマニア向けのクラシックカー専門のミニカーメーカーで、イタリアのビスカレッティ自動車博物館(現在はトリノ自動車博物館)に保存されていた実車をモデル化していました。このブリクシア ツュストはドゥグーとしては廉価版のMUSEOシリーズの1台です。ビスカレッティ博物館の実車を忠実にモデル化してあり、当時のクラシックカーのミニカーとしては良い出来ばえでした。ブリクシア ツュストはほとんど知られていないブランドですので、ミニカーはこれしかありません。 以下はフロント/リアの拡大画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
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