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日野 ルノー 日本 1957年
日野自動車は現在は大型/中型トラックの製造メーカーですが、母体は1910年代に設立されたガス/電気器具を生産する東京瓦斯(がす)電気工業でした。同社は1918年に日本初の自動車生産を行いました。同社自動車部は1930年代に大型車生産を強化する国策で自動車工業と共同国産自動車と合併して東京自動車工業(後にヂーゼル自動車工業に改称)を設立しました。1942年にヂーゼル自動車工業の日野製造所が独立して日野重工業となり、戦車などの軍用車を生産しました。第2次大戦後に民需転換し、大型ディーゼルトラック/バス/ディーゼルエンジンを生産する日野産業となり、1948年に日野ヂーゼル工業に改称しました。その後1959年に日野自動車工業に改称し1966年にトヨタと業務提携し、1999年に工販合併により現在の日野自動車となりました。
日野ヂーゼル工業はフランスのルノーと技術提携して1953年からルノー 4CVのノックダウン生産を始めました。日野 ルノーは4気筒748cc(21HP)エンジンをリアに搭載した後輪駆動の4ドアセダンで、3段変速で最高速100m/hの性能でした。1958年には日本向けに改良されて国産化が完了し1963年に生産が終了しました。総生産台数は約35000台でした。日野 ルノーは操縦性に優れサイズが小さいので取り回しが楽なことからタクシーとして多く使われました。この車の国産化によって得られた技術を生かして、日野自動車は独自設計したコンテッサ 900を1961年に発売しました。
ミニカーは2008年に発売された国産名車コレクション製です。国産名車コレクションの初期物なので、メーカーはノレブです。ノレブは本家のルノー 4CVをモデル化していますから、それを流用していると思います。プロポーションが良く特徴のあるフロントの顔付きやモール類などの細部がうまく再現されていて、なかなか良く出来ています。鮮やかな青のカラーリングも綺麗です。ただしヘッドライトが黄色になっているのは、日野 ルノーの仕様ではないと思います。ノレブは自社ブランドでも型番513222でこれと同じ物を発売しています。これ以外の日野 ルノーのミニカーはインターアライド のコールドキャスト品、当時のヱスビー食品が新製品のガーリックパウダーの販促キャンペーン用として製作したガーリックカー(タクシー)をモデル化したインターアライド のコールドキャスト品、デアゴスティーニ(イクソ製)の世界のタクシーシリーズなどがあります。 以下はフロント/リアの拡大画像と室内の画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
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GM ビュイック ロードマスター アメリカ 1958年
ビュイックはGMではキャディラックに次ぐ高級車ブランドです。1958年のビュイックのフルサイズには下位グレードからスペシャル/センチュリー/スーパー/ロードマスター/スカイラーク(パーソナルクーペ)の5シリーズがありました。アメリカ車では1950年代後半に丸形2灯式ヘッドライトの4灯化が始まり、GMは1958年に全ブランドが一斉に4灯式ヘッドライトを採用しました。ビュイックも1957年から登場した第7世代が1958年に4灯式ヘッドライトを採用して、フロント周辺のデザインが大幅に変更されました。
1958年式のフロントグリルは水平基調になりヘッドライトにひさし(眉)がつき、そのひさしの縁がサイドのクロームのラインにつながっていました。リアサイドの派手なモールはリアの大きなテールフィンと一体化していました。フロントグリルの中央にはV字をあしらったエンブレム、左右のフェンダー上にも同じモチーフのエンブレムがあり、これは見た目からGunsight(銃の照準器)と呼ばれていたそうです。ロードマスターはV型8気筒6L(250-300HP)エンジンを搭載し、3段自動変速で最高速180km/h(250HP)の性能でした。1959年のモデルチェンジでロードマスターはエレクトラに名称変更されました。(実車画像→ ビュイック エレクトラ 1959)
ミニカーは1993年頃に発売されたビテス製です。最上級グレードのビュイック ロードマスター 2ドアハードトップをモデル化しています。ビテスは1950-1960年代のアメリカ車を10数種類モデル化していましたが、これはその1台でした。この時代のアメリカ車は大きくて派手なデザインが魅力なのですが、このビュイックも派手なフロントグリル、テールフィンなど実車のイメージがうまく再現されていました。またグリル中央、左右フェンダー上のエンブレム、室内などの細部も良く再現されていました。バリエーションでコンバーチブル仕様もありました。同時期のビュイックのミニカーはこのビテスの型を流用しているらしいマッチボックス、サンスターの1/18、ニューレイなどがあります。 以下はフロント/リアの拡大画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
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フォード リンカーン プレミア (コンチネンタル MK III) アメリカ 1958年
1952年に廉価版のリンカーン スタンダードが廃止され、リンカーンは高級指向が強くなりました。1958年には全長5.8mと当時最大のボディに当時最強のV型8気筒7L(375HP)エンジンを搭載したリンカーン プレミア 2代目が登場しました。つり目になった4灯式ヘッドライト、クリフカット式(リアのCピラーが逆スラントしている)のルーフと独特なデザインをしていました。当時のリンカーンのラインナップには最上級のコンチネンタル、タウンカー、プレミア、ベース仕様のカプリの4モデルがありました。
コンチネンタル MK IIの解説に記載したように1957年にコンチネンタル部門はヨーロッパ風高級車ではなく、GM キャディラックなどに対抗する高級車を担当する部門にかわりました。その方針に沿って1958年に最上級のコンチネンタル MK III が登場しました。ライバルと同等の価格とする為、40%のコストダウンが必要とされ、もはや手作業での製造はできなくなりました。ボディはリンカーン プレミアと同じボディを使い、従来のコンチネンタルの路線(2ドアのパーソナルカー)とは異なる4ドアセダン系にもコンチネンタル MK IIIという名前が使われました。この流れで、1959年にコンチネンタル MK IV、1960年にコンチネンタル MK Vが登場しました。ただこのコンチネンタル シリーズは不評で、1960年にコンチネンタル部門は廃止され、全く新しいデザインのリンカーン 4代目が1961年に登場することになりました。
ミニカーは1959年に発売されたディンキー(英)製の当時物です。これは私の保有するミニカーの中でも一番古いもので、WEBオークションで入手しました。60年以上前に作られたミニカーですが、保存状態が良くオリジナルの状態を良く保っています。(タイヤはきれいすぎるので、別売りされていたスぺア品に交換されているかもしれません) 1950年代のビンテージミニカーですので素朴な作りですが、プロポーションが正確で特徴的なフロント/リア周りなども結構良く作りこんであり、当時のミニカーとしてかなり良い出来ばえでした。 なおこの当時のミニカーは室内を再現しておらず、室内はがらんどうです。 以下はフロント/リアの拡大画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
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フォード エドセル サイテーション コンバーチブル アメリカ 1958年
フォードは大衆車フォードと高級車リンカーンの間を埋めるブランドとして1938年にマーキュリーを設定しました。マーキュリーは1950年頃にはリンカーンに近い価格帯の車となりました。そこでGMの中級車(ビュイックやオールズモービル)に対抗する車でフォードとマーキュリーの間を埋める新しいブランドとしてエドセルが1958年に登場しました。エドセルという名前は創業者ヘンリー フォードの息子で2代目社長であったエドセル フォードの名前にちなんだもので、フォード家は名前を使うことには反対だったそうですが、新ブランド推進者の意向で押し切られたそうです。
エドセルはフォード/マーキュリー ブランドの車をベースにしてデザインを変える従来通りの手法で設計されました。エドセルにはセダンがグレード順にレンジャー/ペーサー/コルセア/サイテーション、ステーションワゴンがラウンドアップ/ヴィレジャー/バミューダの計7モデルがありました。エンジンは6気筒3.7L、V型8気筒4.8L/5.8L/6.7Lなどがあり、ステアリングホイール中央に配置された自動変速機の押ボタン式セレクター、回転ドラム式スピードメータ-、標準装備されたシートベルトなど先進的な技術が採用されていました。大々的なキャンペーンを経て登場したエドセルの初年度の販売台数は約6.3万台で、フォードの予想を大幅に下回りました。1959年のエドセルはフォードをベースにした低グレードのレンジャーとコルセア、レンジャーのワゴン ヴィレジャーだけとなり、販売台数は約4.5万台でした。1960年にはごく少数が生産されただけでエドセルは生産中止となりました。
販売不振でたったの2年間しか販売されず生産中止となったエドセルは、商業的な失敗事例を象徴する不名誉な代名詞となりました。エドセルの失敗の原因はマーケッティングの問題(ブランドの位置づけが不明確だった)、景気低迷による低価格車志向、デザインの奇抜さなどがいわれています。奇抜なデザインとはHORSE COLLAR(馬車馬の首輪)とあだ名された縦長ラジエターグリルのことです。この当時のアメリカ車のデザインは派手なものが多いのですが、エドセルのこのデザインは派手を通り越して奇抜で品が良くなかったです。車の売れ行きにはデザインの影響が大きいので、個人的にはこのデザインが一番の原因ではないかと思います。
ミニカーは1990年頃に発売されたフランクリン ミント製で、1950年代のアメリカ車をモデル化した1950年代シリーズの1台です。エドセルの最上級グレードのサイテーショのコンバーチブルをモデル化しています。この1950年代シリーズはヘッドライトをメッキパーツで表現するなどややレトロな作風のミニカーでしたが、その作風が1950年代の古い車の雰囲気にうまくマッチしていました。実車がでかいのでミニカーも大きく、実車に即したピンク/白のツートンカラーで仕上げられていました。プロポーションが良く、エドセルの特徴である奇抜なフロントグリル造形や灯火類などの細部もうまく再現され良く出来ていました。ボンネット/ドアが開閉し、エンジン/サスペンションや室内も結構リアルに再現されていました。これ以外のエドセルのミニカーは同じフランクリン ミントの1/24、ダンバリー ミントのワゴン 1/24、ジク(SIKU)の当時物 1/60、ミニチャンプスのワゴン、ホワイトボックス(イクソ)、オックスフォードの1/76などがあります。 以下はフロント/ボンネットを開いたエンジンルームの画像とリアの画像です。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)
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フォード サンダーバード アメリカ 1958年
フォード サンダーバードの2代目が1958年に登場しました。ボディが一回り大型化され、2シーターから4シーターに変わりました。デザインの特徴は当時のセダンとしては低い車高(1.34m)で、これを達成するために変速機とドライブシャフトを収める長いセンターコンソールが前後シートの間に設けれていました。ヒサシのついたような4灯式ヘッドライトは2灯式から4灯式に切り替わる時期の過渡的なデザインで、GM ビュイックやクライスラー ニューヨーカーなど同時期のアメリカ車によくみられたデザインでした。ハードトップとコンバーチブルがありました。
エンジンはV型8気筒5.8L(300HP)で、後に新型のV型8気筒7L(350HP)が少数ながら設定されました。市場調査で初代は2シーター車ゆえに販売が伸び悩んでいることが判明して4シーター化されたのですが、この戦略が成功しました。総販売台数は約20万台と初代の4倍弱となり、高級パーソナルカー市場を拡大させる車となりました。1961年にサンダーバード 3代目にモデルチェンジしました。
ミニカーはフランクリン ミント製で、1990年頃に発売されていた1/43のシリーズ物の一つでした。フランクリンミントの1/43は、当時としては非常に精巧なミニカーで、ドアやボンネットが開閉し室内だけではなくエンジンやサスペンションなどもリアルに再現されていました。壊れにくい金属製パーツを主体的に使っていたので、ヘッドライトの造形など作風が少しレトロでしたが、プロポーションが良く実車の雰囲気がうまく再現されていました。このフランクリン ミントの昔懐かしい感じの作風は、昭和世代の私が慣れ親しんでいる作風です。ボンネットとドアが開閉するギミック付きで、エンジンや室内の細部も良く再現されていました。以下はフロント/ボンネットを開いたエンジンルームの画像とリアの拡大画像です。エンジンルーム内はラジエーターファン、エアフィルターなどがはっきりわかるレベルで再現されています。(画像のマウスオーバー又はタップで画像が変化します)